http://www.sankei.co.jp/databox/kyoiku/etc/050926etc.html
渡辺氏は科学の専門家ではないし、本文を読んでみても科学の意味を理解していないと思われますが、そういう人が「IDは科学だ」と主張するインタビューです。こんなのを掲載するのは狂気の沙汰と思いますが。京大名誉教授という肩書きなら、全然だめな主張でも受け入れてもらえると考えたのでしょうか。
最後の節はインタビューではなく、編集部の記事と考えられますが、「進化論偏向は道徳教育にマイナス 日本の識者も主張」という見出し。"日本の識者も主張"と、あたかも編集部の主張ではないかのように見せているところが姑息ですね。進化論派の主張はまったく掲載されていません。
要するに「進化論偏向は道徳教育にマイナス」というのが編集部の主張です。ここでもまた問題は「科学」と「道徳」の関係になっています。科学的事実によって覆される程度の道徳なら、初めから無意味なのではないかなあ。こういう主張をする人たちはそもそも自分の道徳観自体に自信がないのでしょう。
最後に引用されている中川八洋筑波大教授の言葉(著書からの引用):"『サルの子孫』という非科学的な神話(神学)は、人間の人間としての自己否定を促しその退行や動物化を正当化する"だそうです。
別に猿と人間が共通の先祖から進化したからって、人間としての自己否定を促すことにはならんでしょう。こういう主張は単に"自分はその程度にしか人間ではない"と認めているだけにしか聞こえないので、恥ずかしいと思いますけど。














この記事に対するコメント[285件]
1. たかぎF — September 28, 2005 @13:09:30
http://blackshadow.seesaa.net/article/4226935.html
統一協会がらみという説がでてます。
2. と — September 28, 2005 @13:15:52
放っておくとそのうちカオス理論とか熱力学とかいろんなものを否定しそうです…
3. kiki-chan — September 28, 2005 @13:17:56
一元的な生物・人間の序列があるとはダーウィン自体は言ってなかったと思うし、それ以前の問題として、政治学者が授業で中途半端な知識を披露しないでほしい・・。
いろいろなブログを読み歩いて思うのですが、数理物理学や生物学のプロが、もっと、きくちさんのように、一般人向けに情報を発信してくれるといいな、と思っています。やっぱり理科系の人は研究の世界の方が忙しいのでしょうか、かかわりたくないのでしょうか。あまり、きくちさんみたいにY遺伝子の話とかかみついてくださっている人って多数派じゃないですよね。道徳の話とかも。一方、(ある意味)イデオロギーの流布じたいを仕事にしている学者の声の方が世間一般では響き渡っているように感じます。
産経新聞の記事、といえば、一昔前は「ほほえましいな」くらいで済ませられたのですが、最近、だんだんそれでは済まなくなってきているような気がします。一部の20歳くらいの人を見ていると。
優生学にしろ社会ダーウィニズムにしろ、ダーウィニズムの誤用です。
これらも結局は、先に目的(あるいはイデオロギー)があって、その目的を正当化するためにダーウィニズムを借りてきたものなのだと思います。
少なくとも、事実の説明としての進化論と優生「思想」とのあいだに直接のつながりはないはずです。
こういう人たちとの不毛な議論にはかかわりたくないという気持ちもあるのかなあ・・・。
6. 林 譲治
— September 28, 2005 @16:05:28
性差別や人種格差が容易に優劣の問題にすり替えられ、「デザイン」が「優劣」の根拠にされてしまう。しかもIDを科学と主張することで、社会矛盾の存在に「科学的根拠」まで付与されかねない。そういう危険性が少なからず存在すると思うのですよね。
デザイナーの意図を誰かが勝手に代弁するのでない限り。しかし、IDは科学ではないし、デザイナーの意図に踏み込まなければキリスト教原理主義にとってメリットはないと思うので、その危険はありますね。
我々としては、これはキリスト教原理主義から生まれたものであるということを常に強調しておくべきでしょう。
8. 黒影
— September 28, 2005 @17:07:47
少なくともこの記事に紹介されている「創造デザイン学会」に関して言えば統一協会の下部組織で間違いありません。
http://d.hatena.ne.jp/rna/20050928#p2
http://kurokage.seesaa.net/article/7365404.html
産経新聞は以前からIDに肩入れした記事を書いていましたが
まさかここまでかっ飛ばしてくれるとは、さすがに開いた口が塞がりません。
統一協会系だったんですね。統一協会はキリスト教原理主義ではないと思うんだけど、IDに肩入れするメリットがあるのか。
産経の記事は、なによりもこれを「教育問題」と位置づけて、「道徳」との関連で議論しているところが危険です。
産経webの記事をいくら読んでも「進化論偏向は道徳教育にマイナス」なのかどうか僕には理解できないのですが、これはkiki-chanさんが書いておられるように、優生学などの「社会的ダーウィニズム」などと一緒にして(編集部が記事を)書いているせいなのかな。
後、これは僕がミッションスクールの出身だからかもしれませんが、「科学(仮説)」を用いて安易に「道徳」や「宗教」を説明しちゃうと、もしその科学(仮説)が否定された場合に困るのではないか、と思っています。で、それは「進化論」を用いようと「ID理論」を用いようと同じなのではないかとも思ったりしてます。
「ID理論」については以前もここで議論されているようですが、産経webの記事と「創造デザイン学会」のWebサイトを読んでいるかぎりでは、反証可能性があるように見えない、むしろ、そもそもそういう立場に立っていないように思えます。
「反証可能性がないから科学ではない」という理屈では、現在は駄目なんでしょうかね。
「科学」で「道徳」を説明してしまうことの危険はまったくその通りで、「水伝」にも通じる話ですよね。
12. ゆうちゃん — September 28, 2005 @19:51:51
IDは「人間の祖先はサルだ」「進化論」は成り立つが、それは知的に計画されたものであるというのでは無かったかな〜?
進化論は成り立つが、それとは別に進化を知的に計画した存在がいる
渡辺久義京大名誉教授は本当にアメリカのID論争を理解しているのでしょうか?
13. 271828 — September 28, 2005 @20:30:48
ドーキンスさんはこの理論について何か発言していますか?
だからといって、「2001年」をトンデモだとかニセ科学だとか言う人はいなくて、むしろ「SF史に残る傑作」なわけです。
この違いを考えるのは重要かもしれません。
・・のだそうです。
たまたま、[link:plaza.umin.ac.jp/~kodama/world/newworld.html]倫理(哲学?)をやっている方のページ[/link]の9/28のところで同じ話題があって、ドーキンスの言葉が書いてありました。http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/world/newworld.html
「先に目的(あるいはイデオロギー)があって、その目的を正当化するためにダーウィニズムを借りてきた」というのは全くそのとおりだと思います。進化という生物学的な話と、その生物の道徳・倫理的な価値の序列とは本来まったく関係ないはずなのですが、そこを曲解してしまっているのだと。
16. 中澤 — September 29, 2005 @00:31:59
http://phi.med.gunma-u.ac.jp/humeco/dawkins.html
科学者がID的な考えに逃げるとすれば、やはりそれは無精なのだと思います。
18. かも ひろやす — September 29, 2005 @04:19:48
19. ゆうちゃん — September 29, 2005 @15:55:46
アメリカでの進化論論争は長い歴史があり、幾多の裁判によって反進化論派の公式主張は変化しています。ID理論は19世紀初頭に提案され、その後創造理論の台頭で忘れられていたが、神を隠す理論として再生されたと思います。京大名誉教授のコメントはストレートすぎて今のアメリカの保守派の法廷闘争に採用されることは無いと思います。まあ、キリスト教右派の本音は別でしょうが・・・
参考になるWebは以下にあります。
「インテリジェント・デザイン」で、その考え方は「生命は複雑であり、科学で解明しきれないことが多い。それは生命の起源の背後に創造主が存在するからである」というものです。
http://www.redcruise.com/nakaoka/index.php?p=109
http://en.wikipedia.org/wiki/Intelligent_design
http://www.wired.com/wired/archive/12.10/evolution.html
あっという間にコメントが伸びていることで、みなさんの関心の深さを感じてホッとしています。
しかし、新聞にそういう「主張」が載るとは予想外でした。
21. ゆん — September 29, 2005 @17:26:01
もしかすると、この辺の話に関係して来そうなお話をひとつ。
Wikiベースの教科書構築プロジェクトです。
キリスト教原理主義者の介入が図られるか、注目です。
きくちさんのよく取り上げらておられる、Wikipediaの信頼性にも関係してくる話題ですね。
22. かも ひろやす — September 29, 2005 @17:28:48
IDとは、進化があったことは認めるが、進化のメカニズムが突然変異と自然淘汰であることは認めない主張だと理解しています。進化があったことを前提に「突然変異と自然淘汰だけでここまで複雑な進化が起きたはずがない」と、彼らは主張しているのだと理解しています。その意味で、「進化を否定するもの」ではなく「進化のメカニズムを否定するもの」と書いたのですが、理解または表現が粗雑すぎたでしょうか。
以下、場違いなSF論を展開しますが、きくちさんは許してくれるだろうと勝手に思って続けます。
進化への介入を扱うSF作品は掃いて捨てるほどありますが、多数派は、単純化されたダーウィニズムだと思います。突然変異と自然淘汰のメカニズムを前提として、淘汰圧を調整して何かしようとするのが基本パターンです。スタートレックの場合、第一文明が種をそこらじゅうの惑星にばらまきまくって、それぞれ勝手に進化して、その結果、現在、そこらじゅうに文明が存在していることになっています。第一文明は条件を制御して種をまいただけで、あとは自然淘汰にまかせています(ネタバレになるので以下略)。「そんな都合良く制御できるかよ」とツッコミたくはなりますが、それは別の話。
古い作品だと、素朴なラマルキシズムだったりする場合もあります。日本の作品ですが、安部公房の『第四間氷期』(日本SF黎明期の三大傑作に入ると個人的には思っています)なんかが典型です。これはヒトによるヒトの進化への介入ですが、獲得形質の遺伝によって進化を起こしています(ネタバレになるので以下略)。
いずれにしても、IDなSFは思いあたりません。IDだと、「介入者がこうしようと思ったから」で何でも説明できてしまうので、かえってSFには使いづらいんじゃないかと思います。
『2001年』の場合、キューブリックの映画とクラークの小説でずいぶんと違っている上に、どちらが原作というわけでもないので(しいていえば、どちらも対等に原作)論じにくいのですが、映画版ではピンポイントで環境を激変させて淘汰圧を修正しているだけだし、小説版でも直接的な介入を避けている感じで、IDというより淘汰圧の調整じゃないでしょうか。
すみません。ホーガンは好みに合わないもので、『星を継ぐもの』については何も言えません。
23. とある法律屋 — September 29, 2005 @17:49:23
社会ダーウィン主義的な独禁法理論で著名な米国の保守派法学者の超大物Borkが、IDを引き合いに進化論側が反証できない限り、進化論は疑わしいと主張したのはかれこれ数年前ですが、そのころから、社会ダーウィン主義的な社会科学者がID普及活動を行っていたようです。
ちなみに、上記ドーキンスの書物にIDと原理との関わりが記述されております。
24. たざき
— September 29, 2005 @20:32:17
私も・・。
Wikiベースの教科書構築プロジェクト、ですか。トンデモの独断場にならないか、心配な気もします。
その手の人って、その手のことが人生そのものだから、その手のことで戦うことにたっぷり時間と情熱を注ぎ込むと思いますし。
26. 野尻抱介
— September 29, 2005 @23:06:38
基本的な考え方は野尻さんと同じで、最大の問題は「物語か科学か」だと考えています。
別にIDな小説があったっていいんです。かもさんの言われ通り、それを面白く書けるかどうかは疑問ですが、しかし、作家の技倆しだいではよくできたID小説もあり得ます。小説は大嘘を書いてもよいので、IDだからといって非難されるのではなく、小説としてつまらないから非難されるというのが正しいかと思います。
「科学」として成立するために要求されることと「物語」に要求されるものは違うということで、よいのでは?
28. 271828 — September 30, 2005 @05:44:00
http://www.redcruise.com/nakaoka/index.php?p=144
には世論調査の結果も示されていて参考になりました。
続編を期待しています。
『種の起源』の最初は品種改良の話、人為的な選択が可能なことが述べられています。
超越者が意図的な選択をしたら、それは創造説の変種と言われても仕方が無い。
> でも真にうけるのとSFでやるのは雲泥の差ですもんね。
真に受ける奴が出てくるのは避けられない。たとえば「オウム真理教」。
総スカンを食らうかも知れませんが、彼らは『風の谷のナウシカ』を真に受けた。
この宮崎アニメの傑作に「原罪」の匂いはしませんか?
『2001年』と『ナウシカ』の共通点はホメロスの『オデッセイ』でしたね。
しかし、アメリカでの進化論支持率の低さは目を覆いたくなるほどですね。
「オウム真理教」はまさに物語と事実の区別がつかなくなっていたのだと思います。なぜそうなったのかについて、考えるところはありますが・・・妙に聞こえるかもしれませんが、「オタクになれなかったから」というのもひとつの
答だと思います
「何でそんなバカなことを」と、我々は思ってしまいがちですが、現にそうなんだから、仕方がないのです。私は、そこを踏まえた上で、SFの功罪も考えないといけないような気がするのです。
31. No.4560
— September 30, 2005 @08:08:22
> > でも真にうけるのとSFでやるのは雲泥の差ですもんね。
> 真に受ける奴が出てくるのは避けられない。
これはSFに限ったことではなくて、知性(人と限定しない方が良いのかな)が作った全ての文書・概念に当てはまるように僕は思います。「物語」はもちろん、ある意味では「ノンフィクション」もそうだし、「聖書」など各宗教の聖典も例外ではないように思います。
問題は、文書・概念そのものよりもその解釈の仕方であって、まず「物語」を「物語」と解釈し、そう解釈した上で行動を起こすのであれば、特に問題はないように思います。「これは物語だ」と解釈した上で犯罪行為に走ったとすれば、それは単にその犯罪者の問題でしょう。
ただ、「物語」を「物語」だと解釈できなかったのだとしたら、その犯罪者の問題なのは言うまでもないのですが、教育の問題も無視できないと思います。
「創造論」についても同じで、「(旧約)聖書」をどう解釈するかの問題だと僕は考えています。「聖書」を科学で解釈する必要はないし、科学を「聖書」で解釈する必要もないと思うんですけど、こういう解釈を「創造論」者の方は認めないんでしょうね。こちらこそ教育にとっては大問題なのですが。
「原罪」という言葉については正直よく知らないんですけど、「知恵の樹の実」とは「言葉」である、ってどこかで誰かが言ってませんでしたっけ?
そう(宗教的に?)解釈すれば、こういう問題は永久になくならないようにも思えますが、少なくとも「原罪」自体に罪は問えないと思います(あれ、宗教的ではなくなってるような
33. と — September 30, 2005 @09:36:23
相対論が間違っているというのも立派な仮説です。「公認の学説」とは異説を唱える学者は認めないということでしょう。それだけでも鉄槌(てっつい)を下す意味があるではないですか。相対論支持者は、分からないことでも分かっているように言うのが科学的だと考えています。
…違和感がない。
産経さんは、歴史問題で歴史学?の主流派を「あそこはマルキストの巣窟だから」という一言で葬り去ったノリで攻めてきているのかな?
IDがもっと危険なものに見えるのは、反相対論者といえども「相対論は道徳的に間違っている」とは言わないからでしょう
36. たざき
— September 30, 2005 @23:14:04
科学とは少しでも真実に近づくためにたえず自らを疑い鍛え直している動きのある営みなのだとか、百パーセント確実な科学の体系などはないが一部の知識はきわめて確実だと信じうるとか、そういったことを地道に伝えるのはしんどい。
「これが科学だ」とひとことで言い切れれば、それほど簡単なことはないのだけど、そうではないし、そうではないこと自体がたぶん大事
38. 海法 紀光 — October 1, 2005 @02:06:17
インテリジェントなデザイナーの正体に関する一考察を行い、あらゆる学説に公平な立場から、学校教育への提言を行うページです。
地球温暖化の驚くべき原因も判明します。
これは宗教ではなく、論理的な考察です。多くの人が、空飛ぶスパゲッティ様について、思考訓練をすべきだと思います。
39. たざき
— October 1, 2005 @11:17:43
と、思っていたら、「空とぶスパゲッティ」さまの情報が! これぞ、ぼくらが求めていたものか??
(関係ないけど、「銀河ヒッチハイクガイド」見てきました。すなおに笑ってきました。)
> 目的にあったように進化させる話がコードウェイナー・スミスにあった気がする。
「スズダル中佐の犯罪と栄光」、でしょうか。説明するとネタバレになってしまうのでしませんが。
41. たざき
— October 1, 2005 @11:57:57
あ、多分そうです。手元に本がないのですが、おそらくその話だと思う。ま、スミス流のギャグと言っていいわけですが。
ところで、ジュノって聞き覚えがあるなあと思ったのですが、ぼくの5年以上前の日記
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/d/0006.html
にレムの最後の作品「ジュノ」というのが出てきたからだった(そんな本はないです)。
42. たざき
— October 1, 2005 @12:06:32
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/d/0006.html#10
です。
43. アルビレオ — October 1, 2005 @17:07:59
『2001年〜』は類猿人まで進化した段階からの介入だし、『幼年期〜』にいたっては進化するのをただ待つだけの存在で、生命進化をお膳立てする「デザイナー」の存在をほのめかすような部分はなかったような気がします。
というか、そういうのはクラークの趣味ではなさそう。
『銀河ヒッチハイクガイド』のアレは、どっちかというと創造論のパロディですね。ここのID関係の話題を読んでからそのことに気づいたんですが。
生命進化デザイナーがはっきりと登場するといえば『順列都市』のバーチャル生命とかがそうでしょうか。結局デザイナーの意図していない方向に進んでしまうというオチになるわけですが。(ネタバレ)
デザイナーが人間やそれに近い能力や立場だと、やっぱりそのうち制御しきれなくなるという結末に向かいそうだし、人間をはるかに超えた存在を想定してしまうとその存在証明はほとんど不可能だろうし。
完璧なデザイナーなら後から介入するような野暮はしないでしょうからね。
44. 271828 — October 1, 2005 @20:24:09
総本山のサイトにはショップもあり、海賊と地球温暖化の関係をエクセルで描いたと思われるグラフがプリントされたTシャツやマグカップも販売されていました。長寿とTVの普及率の関係を示した高名な研究と対を成すものですね。
http://www.venganza.org/store.htm
産経新聞ってこんなにひどいしろものだったのですね。こんな超保守主義的な主張をしてるなんて。むちゃくちゃで嘘でかためられた主張でも何度もくり返していればいずれそれを信じるひとが増えてくるとおもってるのでしょうね。実際そうなりそうでおそろしい気がします。
46. たざき
— October 1, 2005 @22:47:12
47. 野尻抱介
— October 2, 2005 @01:17:44
銀河ヒッチハイクガイド、昔Infocomのテキストアドベンチャーをやりまくりました。検索してみたらオンラインでプレイできるじゃあーりませんか。下記からどうぞ。
http://www.douglasadams.com/creations/infocomjava.html
48. 産経新聞は — October 2, 2005 @08:52:26
産経新聞 オカルト
などでググって見ると色んなページがヒットしますね。
超能力の礼賛とか
精神力で遺伝子を鍛えられるとか
いろは歌の書かれた色紙から波動が出ていて、『非常に高い治療エネルギーがある』とか
右より(国内で相対的に)のマスメディアと非科学が仲が良いのは何故なんでしょうね。
といってもサンプルは日本とアメリカだけなので、たまたまなのかもしれませんが。
49. 271828 — October 2, 2005 @09:45:36
http://ameblo.jp/tomsek/entry-10004714141.html
対訳で読めますもん!ここで気になったフレーズ。
the disagreement between reason and faith, Athens and Jerusalem, science and Scripture.
そしてドーバーという言葉で思い出した一節。
「ギリシア人はだれも,他人が宗教についてどう考えようと,異端だといって排斥したり,自分の考えこそ神の啓示に基づく真実であると弁護する立場にはいなかった.かれらの宗教上の環境は,キリスト教を奉ずるヨーロッパよりもはるかに日本のそれに似ていた.正統派,教義,啓示の権威に固執する態度は,キリスト教によってギリシア人の世界に強要されたものである.」(K.ドーバー『わたしたちのギリシア人』)
>ということをきちんと主張していくしかないのでは。
(きくちさん 31.No.4560 へのレス)
その「違う」と言うときのニュアンスが重要だと思います。その言葉は、すこしでも「物語」「お話」を貶めるような気配があれば、効果を発揮しないのではないか。現状の権力関係に由来するルサンチマンを常に意識するべきではないか。
「科学と物語は違う」とか「事実とお話とは違う」という言説は、主に「科学」「事実」の側から発される。「物語」の側から発するとき、それはほぼ「開き直り」としか解釈されない。(筋肉少女帯『レティクル座妄想』では“悲鳴”として表現されています)
「科学」は、「物語」の人たちから、強烈な羨望のまなざしを受けています。多くのカルトは「科学」を名乗り、剽窃します。「科学」が持つ圧倒的な権力の反映だと思います。
「科学」の人がその権力性に無自覚なまま、オカルトの人をばかにしているのを見ると、うんざりし、悲しくなります。いくら世間的にオカルトが幅をきかせているように見えても、「科学」は圧倒的に強者の側です。もっと弱者の立場も思いやった作法を身につけないと、事態は悪化するばかりではないでしょうか。
寮美千子の論説[http://ryomichico.net/bbs/review0006.html#review20030216041104
科学は科学としてその真髄を守り抜くのと同時に、たとえば「ファイテン」のグッズは「神社のお守り」に近いものなのに、それが「科学(っぽい感じ)」を採用してしまうという“文化的貧困”について憂慮すべきだと思います。ほかに有力な選択肢がないから「科学」になだれこんでくるのではないか。
だからどうすればいいかというと、とりあえずは「峻別はするが、ばかにしない」という作法を徹底することぐらいしか思いつかないのですが。
科学と道徳(宗教)との接点という関連では、「生長の家」総裁代行・谷口雅宣氏のウェブログは注目に値すると思います。
http://masanobutaniguchi.cocolog-nifty.com/monologue/
しかし、現時点でのニセ科学問題はかなり深刻で、少なくとも日本では科学が負けつつあるのではないかと切実に感じています。僕はその点をまったく楽観視していません。
たしかに科学は剽窃の対象となっているのですが、結果として「科学と称する物語」が優勢になりつつある。残念ながら、僕が今「科学と物語は違う」と声高に言わなくてはならないと考えているのは、そうでなければ「科学と称する物語」に負けてしまうからです。
「ニセ科学」を提唱している連中は所詮は確信犯でしょう。善意で信じ込んでしまった人たちにいろいろ考えてもらいたいとは思いますが、これまでの経験からすれば、ビリーバーは説得できない。僕らにできることは、半信半疑くらいの人たちに事実を伝えることで、やはりそこでは「科学とお話は違う」と言うしかないように思います。
53. A-WING
— October 2, 2005 @17:52:12
確かにそうですが,大衆の文化の問題と発信源の文化の問題を,別に考えるべきだと思います。
なぜなら,ニセ科学の発信源にとっては,自説が真実であるかどうかはさほど重要ではないからです。
嘘だとわかってやっている場合が多い。
私は,ニセ科学と真科学には,そのプロモーション活動に大きな差があると考えます。
ニセ科学にとってのプロモーション活動は,彼らの利益に直結しますが,真科学のプロモーション活動は,おもに無償のボランティアになり,あまり利益になりません。
そのため,ニセ科学の動きに対して,真科学の動きは常に後手になってしまいます。
ある論理を消去するには,新しい論理でもって上書きするしかありません。
つまり,先に論理を植え付けたほうが,断然有利です。
ですから,先手を打ってプロモーションを展開するのが,一番効果的ではないかと思います。
54. 匿名希望 — October 2, 2005 @22:54:48
有名国立大学の理学部の学生でも、「科学は物語の一種」となんとなく思って科学を学んでいる学生が、少なからずいるように感じます。先生方の前でそう口に出して言う学生はいないと思いますが。印象に過ぎませんが…。
長く在米で生命科学の研究に従事し、最近日本国内の研究職に就いた者です。
帰国後、にせ科学の問題に非常に興味を持つようになり、きくちさんと同様の憂慮を感じておりますが、科学研究者としてはどのような情報発信を行なっていけばよいのだろうか、と考えております。現在までにこのようにWebサイトによる意見表明はなされているし、講義などでもきくちさんのように訴えていくことは必要であるとはおもいますが、それらにもかかわらず現状はにせ科学派が明らかに優勢であるように感じられます。
大多数の研究者はにせ科学を問題だと思ってもばかばかしくて声をあげないのではないかと思いますが、それが良くないのでしょうか。きくちさんやこのサイトの読者の方々はにせ科学派に負けてしまわないためには今後どのような活動が必要とお考えでしょうか?
まずは、ニセ科学は深刻な問題であることを科学者に認識してもらう必要があります。それでも問題だと思わない人には「せめて邪魔はするな」と言わなくてはならないかもしれない。
ニセ科学を批判してもなんの業績にもならないので、下のほうに反論が書かれてはいますが、やはり一般の科学者にとってニセ科学批判はボランティア活動に過ぎません。まあ、それはそれでいいのだと思います。業務命令でするようなことではないし。ただ、そのボランティア活動に時間をちょっとでも割く人が増えてくれないと。
いや、どうしたらいいのかと言うと、やっぱり広く訴えていくしかないでしょう。僕もとりあげてくれる媒体がないかとそれなりの努力はしてるのだけど、なかなかとりあげてもらえません。
57. たかぎF — October 3, 2005 @15:14:01
というよりも、そもそもそんなにニセ科学が蔓延しているということに気付いていないんじゃないでしょうか。
少なくとも私は最近まで気付いてなかったです。
58. と — October 3, 2005 @16:29:50
○「選ばれた勝ち組経営者のための特別講座(ホテルディナー付10万円)」
×「市民講座(入場無料、ドリンク実費)」
59. 板倉
— October 3, 2005 @17:51:17
IDとは関係ないですが、物理屋の中にもこんな奴がいるそうです
http://www.orionfdn.org/nature12-12-2002.pdf
Nature や Science に別分野で出たこともある人らしいんで始末が悪いです。
> 嘘だとわかってやっている場合が多い。
ニセ科学を、ニセと知りつつ大衆を騙して金儲けをする輩は「ペテン師」で、司直に任せれば良いのです。ペテン師はニセ科学をニセであること認識できるという意味では優秀な頭脳を持っています。
殆どのニセ科学発信者は自説をニセとは思っていないのでプロモーション活動に熱心になるのではありませんか?
> 真科学のプロモーション活動は,おもに無償のボランティアになり,あまり利益になりません。
国家予算を使って「真科学のプロモーション活動」を組織的に行う大学は「無償のボランティア」ってことはありませんよね。だから大学人は頑張って下さいね。
マイナスイオン3悪人のひとりである堀口昇が薬事法違反で摘発されたのが、マイナスイオン業界全体にどう影響したのか、きちんと調べてみたいところです。
62. スノーケラー — October 3, 2005 @21:17:40
キリスト教右派に傾くなんて……。
ホーガンの『星を継ぐもの』は、ID論的なものではないです。
作中で主人公に次いで重要な登場人物である生物学者が、ID論を完全に否定しています。
「完成された姿、あるいは理想的な終着点という考えは捨てるべきです…(略)…この根本的な事実を見逃すと、とかくあらかじめ定められている完成した形に向かって淘汰が進むという考えに陥りがちです。しかし、それはとりわけ優れた適応性を発揮して生き延びた人間の目で進化の系統樹を振り返って、どこにも行き着かなかった無数の枝葉を忘れているためです」
で、「月で5万年前の人間の死体を発見」というきわめてSF的な設定を、書かれた当時の科学と矛盾しないように、いかに説明するかという、ある意味でミステリーにも近い作品です。
63. 本上力丸 — October 3, 2005 @22:55:46
個人的に思うのですが、ここで今一番大切なのは、「おかあさんのように優しい言葉」を使うことだと思います。
つまり、小中学生に理解させるつもりで言葉を選び、また今までニセ科学を信じていたこと自体を断罪しない、まあ要は先の選挙で小泉首相が採用していたような方針ですね。
自戒を込めつつ書きますが、ニセ科学批判は、しばしば「正しい立場から間違っている者を断罪する」という嗜虐的な喜びが文面に見え隠れしてはいないでしょうか(今月号のSFMに載っているマイケル・クライトンの文章もちょっとそう感じました)。
そして、それが一部の人の反感を買っているのだと私は推測しています(と学会を批判する人が少なくないのも、そういう理由ではないかと。真面目に研究している人たちを笑い者にするなんて許せない!という)。
特に日本人は(これは決して悪いこととではないのですが)判官贔屓な面を持っていると思いますし。
ニセ科学の人たちは、耳に優しい、”弱者”のための物語を磨き続けています。
そしてそれに対抗する、科学の本質的な精神を紹介する力強い物語こそ、SFの役目の一つなのではなのではないか、と思っています(多分、その意味で一番成功しているSFは「ドラえもん」でしょうね)。
それはさておき、まじめな話のほうですが、相手を説得するためだとすると、これはなかなか難しい。たとえば、「水は言葉を理解しない」ことを大人に改めて説明するのは難しいです。「断罪」ではなく、どれほど淡々と説明しても、やはり"馬鹿にしている"ととられそうです。「おかあさんのように」は、それはそれで"馬鹿にしている"と思われて逆効果のような気がします。子供に説明するのは易しいのですけど。
何度も書いていますが、僕は「既に信じこんでしまっている人」の説得よりは、まだ半信半疑くらいの人への説明のほうが重要だと考えています。言葉を選ぶとしたら、そのために選びたい。というより、それくらいしかできることはないかもしれない
その会は、基本的には春日大社の信徒というのか会員のみが参加するプライベート・イベントで、そもそも信心深い人の集まりです。さらに修験道の香りのする伝統的な身体=精神の調整術まで持っているのに、「科学(やニセ科学)」の威光なしでは話が落ち着かないのかと思うと、ちょっとした驚きでした。
ただ、同じ春日大社でも「葉室宮司の言説」と「無精でない科学や歴史」とは今後も何の接点もないと思いますが、その人なら、適切な誘導さえあれば「信仰」と「科学」とを両立できるのではないかという印象がありました。それもあって昨日の投稿だったのですが、なるほど楽観的すぎたかもしれません。
「ものみの塔」の冊子には毎号科学解説記事が載っているものがあって、かなり正確なことが書いてあるのですが、最後は決まって「このような精妙な自然が、誰の意志でもなくできあがるでしょうか?」というような文言で締められています。こんな解説を書くだけの能力と知識があるのに、もったいないなあ、と思います。でも、事態はそれでころではないのですね?
オカルトが「科学(っぽい)」を持ち出すことを「タダ乗り」とするならば、ニセ科学は「乗っ取り」という感じでしょうか。
「ものみの塔」のパンフレットはときどき読んでいます。科学に対する態度が急速に変わってきたような気がするのですが、どうでしょう。ID的な戦略をとりいれているということかも。
67. 見物人 — October 3, 2005 @23:35:33
>嗜虐的な喜びが文面に見え隠れしてはいないでしょうか
同感です。
一部の疑似科学批判サイトは、非科学的なエコロジーなどを手厳しく批判する
くせに、人類が長続きするためのことを科学的に正しく論じることに相応の熱意
をこめていないようなところがあるように思えます。
環境問題は昔からニューエイジ的なものと結びつきやすく、またドグマ化しやすいうえに、なぜか「敵・味方」概念に陥りやすいという難しい性格を持っています。Bjorn Lomborgが卵を投げつけられたなんてのは、論理と全く無関係に「敵・味方」概念で判断が行われたためです。それはそれとして。
そんなわけで、どうしても「無意味なこと」が横行しやすい。それに対して「無意味である」と指摘することと、対案を出すこととはまったく別の問題になります。無意味なものの中にもほっといてもいいこととほっといてはまずいことがあり、少なくとも、ほっといてはまずいことについては何か言っておかなくてはならないでしょう。対案がないなら反対するな、というのは政治の世界では通っても、科学では通りません。
一方で、sustainabilityの科学的議論は非常に広い範囲の知識を必要とします。それこそ熱力学だけで議論できると考えている人も物理学は不要と考えている人も同程度に間違っていて、あらゆる範囲の知識を動員しなくてはならない。非科学的な意見を批判するのに比べると、困難さの度合いはまるで違う。
もっとも、たしかに揶揄するためだけに批判している人たちも多いとは思いますが。
69. 271828 — October 4, 2005 @05:49:31
20年も前に読んだので筋をほとんど忘れていて、ホーガンさんには失礼を致しました。あの三部作は夢中で読んだ記憶だけが鮮明に残っています。
> 多分、その意味で一番成功しているSFは「ドラえもん」でしょうね
私たちの年代では「鉄腕アトム」ですね。
日本人の二足歩行ロボットへのこだわりはここから生まれています。
お蔭様でこのロボット
http://www.sakakibara-kikai.co.jp/products/other/LW.htm
に乗せてもらい大満足でした。外観はガンダムですが心はアトムです!
大学では研究業績が論文という結果で評価されますが、一方の教育は評価が難しいということが根本的な問題ではありませんか?
71. としぞう — October 4, 2005 @10:10:23
きくちさんもおっしゃるように、少なくとも一部のにせ科学は、自分達の商品を売るためにその商品の能書きか権威付けのためににせ科学を利用しているように思われ、消費者を欺くことを禁じている決まりに反すると思われます。
道徳や宗教がにせ科学を動員しなければならない理由もこれの延長線上にあるのでしょうか。だとすれば非常に残念なことです。子供のころから、例えば「大工さんは心を込めて道具の手入れをすれば道具もそれに応えてくれる」とか「一生懸命世話をすれば畑の作物もよく実る」というような話があって、モノに気持ちを込める、ということの大事さや道徳性について教えられていることが「念じるとモノの性質が変わる」という話を信じる下地になっているのでしょうか。「念じるとモノの性質が変わる」の更に先には、「念じると雲が消える」「念じると空中浮遊できる(オウム真理教)」もあるように思います。
「モノに心を込める」ということと「念じるとモノの性質が変わる」ということは違う、ということは教えにくいことなのでしょうか。
72. swtk — October 4, 2005 @11:35:17
したがるのでしょうね。
74. と — October 4, 2005 @16:52:45
http://www.chojin.com/person/jp.htm
ざっと見た感じでは、文系の人のほうが「反共産主義」とか「ナショナリズム」といった立場が見えるのに対し、理系の人はもろに「信者」という印象があります。
植田利喜造さんの発言など、素直に怖いと感じます。
http://www.redcruise.com/nakaoka/index.php?p=147
オーストラリアでもIDが広まっているとは驚きでした。
保守派の主張をここで
http://ameblo.jp/tomsek/entry-10004835050.html
読めますが、ドーキンスさんの発言も採録されています。
>リチャード・ドーキンス氏は、「進化論を信じないと言う人に会ったら、その人は無知で愚かで気違いであると言って全く問題ない」と書いている。
なんだか大槻センセー風ですね。ヨーロッパのような「大人社会」では正論ですが、アメリカでは反発を食らいますね。
>「ニセ科学の害」を説いても業績として評価してはもらえませんが(^^;
特別な講義、というのではなくて日々の授業の中で実現できないでしょうか?
たとえばデカルトの力学は「トンデモ理論」なのですが、ヴォルテールはニュートンのそれと比較して『哲学書簡』のなかで面白おかしく紹介しています。人間の間違え方は300年前も現在も同じです。どこで間違ったかを知ることがニセ科学にはまらない特効薬と思います。
76. たざき
— October 6, 2005 @00:32:11
78. かも ひろやす — October 8, 2005 @14:16:45
79. swtk — October 9, 2005 @17:30:07
きくちさん、および「としぞう」さんによるコメントと非常に
似通った記述が見受けられますが。
http://www.janjan.jp/living/0510/0510063447/1.php
81. アルビレオ — October 9, 2005 @19:15:02
その記事内で
>科学者の中にはそういう危機感を表明している人もいる。例えば〜
とkikulogへのリンクを掲示していますから、ここに書かれた内容も参考にしながら書かれたものと考えていいのではないでしょうか。
82. kmori
— November 1, 2005 @06:06:06
モンティ・パイソンの空飛ぶ創造説(Slate)
http://d.hatena.ne.jp/Gomadintime/20051027/p2
自分にモンティパイソンの教養が無いのが悔やまれます
見てない人にも十分おかしさは伝わります。
惜しむらくは、モンティパイソンがイギリス流のひねくれたユーモアなのに対して、この裁判は少々イギリス紳士の香りに欠けることでしょうか(^^
84. 創造論者 — November 27, 2005 @16:47:01
自分は両方教えるべきだと思います。
というのも、自分は進化論を信じてきたというか、
それしか教えられてこなかったわけで、
日本人の大半は創造論を知らなかったと思います。
それが、最近創造論を知り、実は進化論よりも創造論の方が正しいのでは?と思い始めています。残念なのは自分が子供のころから創造論を知らずに生きてきて、進化論のみ教えられてきたことです。これはある意味「洗脳教育」を受けてきたようなものです。
良く科学信仰だとか科学絶対主義だとか、言われていますが、この風潮には疑問です。科学で全てを示せるわけではありませんし、進化論では最初の生命の誕生は創造論でなければ説明不可能だと思います。
無生物から生物が自然発生するのは、山の中から東京タワーが自然に発生する「奇跡」のようなもので、
進化論者はその「奇跡」を説明するために「時間」を言い訳にしました。
つまり、何億年も時間が経てば無生物からでも生物は誕生するとしましたが、
雨が降っても雷が鳴っても天変地異が起きても、山の中から東京タワーが自然に発生するようなことは無く、
進化論者の方が実は非現実的なことを言っているわけです。
知的創造者が生命を作ったとするほうが、山の中から東京タワーが出てくるよりもあり得ます。
世界中の科学者が進化論に懐疑的になってきて創造論を支持しつつあります。まだ数は少ないですが、世界中の科学者の署名も400人を超えて450人に達する勢いなんだそうです。2005年11月現在。
もし本気で「進化論だけ教えるのは洗脳である」というなら、対案はキリスト教的創造論以外のあらゆる創造神話も教えろということであろうかと思います。イザナギ・イザナミの国造りから教えろという提案は別の文脈であるでしょうが。世界中の創造神話を並べれば、キリスト教的創造論は所詮one of themになるだけです。まあ、それはそれでいいかもしれませんが、ドゴン族の神話も教えたほうがいいですか?
対案がIDやキリスト教的創造論に限られるなら、それは所詮宗教教育です。アメリカで進化論への対案がキリスト教的創造論しかないのは、キリスト教を基礎とした国だからです。
86. A-WING
— November 27, 2005 @17:42:59
「洗脳」という言葉をうかつに使ってはいけませんよ。
ホントの「洗脳」は,薬物つかいます。
>良く科学信仰だとか科学絶対主義だとか、言われていますが
たぶん思い込みでしょう。
てか,少なくとも私は聴いたことないです。
>進化論では最初の生命の誕生は創造論でなければ説明不可能だと思います。
進化論は,生き物の進化課程の話であって,最初の生命がどのように誕生したかって話じゃないのでは?
最初の生命に関しては,最近は「たんなる偶然(というか必然)」との説が有力だったはず。
仮に創造者がいたとしても,「それがどうした」って思いません?
だって,絶対的な存在が為すことは,人間にはどうしようもないことなので,それを何とかしようとするのは,無意味で愚かなことですから。
そのようになっていることに対して,ではどのようにすれば我々の利益になるかを考えるのが,知恵とうものです。
だいたい,真のクリエイターは,いちいち人の話を聴かないものです。
なにかを誰かの好みに合うように作るのは,商業クリエイターの仕事であって,真の創造者のすることではないですから。
また,そういう人が作るものは,たいてい,人の迷惑になります。
87. としぞう — December 13, 2005 @13:27:21
朝日も天外伺朗が書評委員だったりして相当なものですが、産経の姿勢は相当疑問で、11月28日の教育記事には最近の「脳科学」により彼らの道徳が補強されている旨の記事が出ていたりして、なんだか主張の基盤として科学の力を欲しがっている傾向が強いみたいな気がします。きくちさんのおっしゃる、「自信の無さ」なのかもしれないし、「これは道徳じゃなくて、客観的普遍的事実で否定はできないんだよ」といいたいのかもしれませんが、いずれにせよ、教育面の記事としては
あんまり朝日だ産経だというとすぐ熱くなる人がいるのでそういうことを言うのは本位ではないのですが。
89. ROCKY 江藤 — December 22, 2005 @00:42:16
アメリカの地方裁判所で、IDは宗教に基づくものであり、公立校で教えるべきことではない、と言った内容の判決が出たようですね。
http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20051221202.html
に詳報があります。
見かけは科学でも由来が宗教であることをきちんと認めていますね。
92. としぞう — December 22, 2005 @09:54:09
http://www.sankei.co.jp/news/evening/22int002.htm
しっかし、そこに書いてある、IDの解説。
ID論は、「自然は非常に複雑で、進化論の無作為の自然淘汰(とうた)で説明することはできない」として、高度な「何らかの意図をもった知性=知的設計者」が介在しているとする考え方だ。
こういう「理論」を真顔でいうひとがいることが、どうにも信じられない、と改めて思います。
94. ROCKY 江藤 — December 22, 2005 @12:31:21
こう要約すると、なんかアーサー・C・クラークの「2001年宇宙の旅」とか「幼年期の終わり」みたいでもありますね。でもあれはあくまでも小説だからなあ。
学校で小説(物語)を科学として教えちゃあいけない。
96. 成田ひつじ — December 22, 2005 @14:20:29
98. ROCKY 江藤 — December 22, 2005 @16:38:00
99. たざき
— December 22, 2005 @19:14:59
http://mira.bio.fpu.ac.jp/tadas/cgi-bin/blxm/blosxom.cgi/050827.htm
101. かも ひろやす — December 22, 2005 @22:40:09
で、
現に起きているそれが、突然変異と自然選択が進化のメカニズムであることを支持する証拠になってるってことが、重要なんです。「突然変異と自然選択だけで、こんな複雑なことが起きる訳がない」というIDの主張に、「現に大和郡山で起きてますけど」と返せることが大切です。
『2001年宇宙の旅』は品種改良であってIDとは違うというのはすでに書きましたので、繰り返しません。
103. としぞう — January 10, 2006 @13:14:01
http://www.sankei.co.jp/databox/kyoiku/etc/051222-2etc.html
こちらのほうが産経らしいといえばらしいのかもしれませんが。
104. 成田ひつじ — January 19, 2006 @09:38:29
ところでよく引き合いに出されていたクラークの2001年ですが、2010年→2061年→3001年とシリーズが下るに従ってだんだんモノリスの扱いが低くなってますね。はっきり言ってどんどん馬鹿になっていくT_T。
クラーク先生、実はああいうよその進化に介入する存在を作り出したことを後悔しているのかも。
自分はIDも悪くないんじゃないかなと思います。進化の過程では進化論で説明できると思いますが生命誕生については今現在私が知るところでは説明できないと思います。類推法のように考えればDNAを他の知的生命体が書いた(逃げですが)と考える事もできると思います。
神はいないとは誰も証明出来ないと思うのでIDも頭ごなしに否定出来ないと思います。
たとえば、"IDを支持する"と言ってしまうと、思ってもいない政治的意味を持ちます
107. 稲 — January 27, 2006 @22:13:16
108. Kosuke — January 28, 2006 @07:14:16
何によらず不存在証明は不可能なので、これほど内容の無い言明はないですネ。それを言ったら、ありとあらゆる荒唐無稽な主張を否定できないです。
109. A-WING
— January 28, 2006 @12:23:20
解らないことはがんばれば解るかもしれないけど,解れないことはがんばっても解れないので,解れないことは気にしないのがいいんじゃないでしょうか。
http://www.christiananswers.net/japanese/q-eden/origin-of-life-j.html
せめて京大教授ならこれくらいの意見を期待していたのですが
112. としぞう — January 29, 2006 @22:03:49
>現代の多くの科学者は唯物論者です。つまり、物質のみが究極の現実であると信じているのです。彼らは、生命を含む宇宙の全てのものは、相互作用する物質という観点から説明されうると考えています。唯物論者は精神的、または超自然的な力の存在を認めません。
とのことですが、なんでこのように宗教と科学を互いに相容れないもののように捉えるんでしょうかね?
生命科学者であってキリスト教信者であるというケースは、日本ではそもそもキリスト教が盛んではないので少ないと思いますが、そういう人々は海外にはたくさんいて、その中には本当に宗教的に敬虔な人々もいます。私などは、別に宗教的な人間ではないのですが、生命の初めは偶然によって作られた、というのを、言い方を変えると、生命の初めは神によって作られた、というのは言ってもよい、などと思うのですが、そういう理解ではいけないものなのでしょうか?
神様を信じる人々がみんな「超自然的な力」の存在を受け入れているとも思えませんが。
ID以前の創造論科学と闘った科学者がすべて無神論者というわけではなく、むしろキリスト教ときちんと折り合いをつけていた人が多かったのだと思います。
そういう人たちは創造論科学がIDと名前を変えただけでは支持しないでしょうね。
114. 匿名希望 — February 5, 2006 @14:51:32
Trends Cogn Sci. 2005 Dec 17;
The Intelligent Design controversy: lessons from psychology and education.
Lombrozo T, Shtulman A, Weisberg M.
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/query.fcgi?cmd=Retrieve&db=pubmed&dopt=Abstract&list_uids=16368260&query_hl=6&itool=pubmed_docsum
"They (who accepted evolution)
were also more likely than creationists to believe that
evolution has no social or moral consequences, positive or
negative."
の一文が際立ってますね。
進化(より広くいえば科学的な事実)それ自体にはモラルや善悪なんてないのだ、ということですね。
何か新しいことを言ってるわけじゃないですが、ほんの1ページの短いレターなので、アクセスできたら一読をお勧めします。
自分も昔の理科の知識しかないので適切に教えてやれなかったので残念でした。
中学生の息子、いやその友達に読ませて「ぎゃふん」と納得してしまうような難しくない本というか、雑誌というか何かないでしょうか。適当なものあればよろしくお願いします。
長谷川真理子さんの岩波ジュニア新書「進化とはなんだろうか」なんてどうでしょうね。
それから、左巻さんたちが作られた「新しい科学の教科書3」には、中学生が本来学ぶべきレベルでの進化の説明が書いてあります。
117. ながぴい
— July 5, 2006 @11:08:57
竹内 薫 著、光文社
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4334033415/ref=ase_mixi02-22/503-8626485-8835100
という本でIDが取り上げられています。
この本では
『宇宙のどこかに知的設計者がいて、その知的設計者がたとえばDNAを設計して、生命を作り出したという説』
とか
『なんらかの知的生命体が生命の種をまいた』
という説として紹介されています。
さらに、
「アメリカの若者のうち進化論を信じているのは37%にすぎない」
といった話が出てきて、
『この知的設計説という「大仮説」はまんざらバカにできないものだ』
と著者が持論を述べています。
どうも著者はIDと「意図的パンスペルミア」を混同しているようです。
この本は科学啓蒙書のつもりのようですが、極めて軽薄な感じの本です。
知的設計者がでてきたところで「生命の起源」についての疑問にはな〜んも答えたことになってないしね。
「その設計者はどこから来たんじゃ?」ということになってしまふ。
そんなことも著者はわかってないのか?
さて、世間で話題の「99.9%は仮説」、僕はまだ読んでません。いろいろ批判もあるようですが、売れてるのもたしかですね。僕は、99.9%は仮説であることくらい当然で、むしろ、ひとことで仮説といっても「99.9%正しいと思われる仮説」から「99.9%間違っていると思われる仮説」まであるのだ、ということのほうが重要に思えます。そういうことを書いてあるのかどうか知りませんが・・・
十把一絡げにすると相対主義になっちゃう
IDは科学的内容以前に政治なので、そこを抜きに語るのは危険ですね。それは無邪気にすぎると思います。パンスペルミアとは区別しないと・・・
119. こなみ
— July 5, 2006 @11:29:37
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/e0009.html#e20010512203220
121. ながぴい
— July 6, 2006 @22:15:40
わしにとってはもう「クロ」ですね。
この本には
「ミリカンの油滴実験による電気素量の発見」
の話が出てくるのですが、
その部分の結論だけを抜き出すと次のようなことが書いてあります。
『ミリカンの行為は、170個のデータのうちの112個を捨て去った意図的な改竄ということになります。ミリカンは、インチキというレッテルを貼られる可能性もあったのです。まさに紙一重ですね。ようは、結果オーライだったのです。しまいには、ミリカンはノーベル賞までもらってます。』
ヲイヲイ、「結果オーライ」じゃね〜だろ。
ど〜ゆう倫理観してんだ。軽薄にもほどがある。
「ミリカンは電気素量の発見者ではない」
というのが現在の共通認識だと思ってたのだが、
違うのかな?
123. ながぴい — July 7, 2006 @05:35:03
ミリカンの件に関しては言い過ぎたかな…?
(ちとネットで調べてみた)
ミリカンの求めた値は、現在知られている値と1%程度しか違わないのか…
しかし、実験の誤差から予想されるよりも良い精度で結果を出してしまうのはフライングぽいよな…
ミリカンが研究者としての鋭い洞察で結果を予想したというのであれば、実験の方ではなくて、その洞察だけで論文書けばいいだけの気もする…
この件に関しては「背信の科学者」で読んだ程度の知識しかないので、もちっと勉強したほうがよかったな。
でも単純に「結果オーライ」ですませていい問題だとは思わないという点は変わらない。
ミリカンの実験は1910年代の前半ですが、R.A.フィッシャーが活躍したのは1920年代以降ですし、ネーマン・ピアソン対フィッシャーの論争も1930年代だと思うので、ミリカンの時代には「検定」の概念も確立していないのではないでしょうか。誤差や検定の概念が確立する以前は、「取捨選択」も科学的に間違いではなかったと思います。
つまり、当時の常識で考えてミリカンは正しい科学を遂行したのではないでしょうか。結果はのちのち何度も検証されるので、それでよいのだと思います。結果オーライではなくて、それは科学の普通の進め方なのでは?
このあたり、科学史のかたのご意見を伺いたいところです
メンデルの実験があまりに理論値と合いすぎることも有名で、これも取捨選択されていたと考えられます。僕はこれを「カイ二乗が異常に小さくなる例」として教えています。しかし、メンデルの時代にはカイ二乗統計量自体が存在しない(^^
もちろん、同じことを今やったら問題です。
言われてみりゃ、そうなのでしょう。
わしの場合、「背信の科学者たち」の印象が強すぎたので、
「ミリカン悪いやっちゃ」との先入観があったようです…。
電気素量の値がある程度予測できてて、それに合わせるように取捨選択しただけなのか、
ミリカンがうまくいったと考えた実験のみを選択した結果正確な値が求まったのか、
どっちなのか詳しいところを知りたいです。
「結果オーライ」もそうだけど、この本全体に漂う竹内氏の軽いノリにはうんざりさせられます。(そのうちミクシイでレビューを書く予定。ミクシイは発言を消去したり修正できるので御気楽〜)
いや、それは現代の物理教育ビデオとしてはまずいんじゃないの、と思いました。
やはり、「当時だからこれでよかったので、今の科学者はそれやっちゃだめよ」と教えないといかんでしょう
「背信の科学者たち」は面白い本だけど、ミリカンの件は前々からどうかなあと思ってます。科学史の人の意見希望
127. アマサイ
— July 7, 2006 @14:31:13
(ここ2年間竹内先生の朝日カルチャーセンター(略称:朝カル)の物理講義を聴いているのでかなりなファンでしょう)
「宇宙のどこかに知的設計者がいて、」
IDってこういう解釈も含むでは?IDに関しては、natureかScienceに収録された論文を朝カルの講義で一緒に読んだので、竹内先生がIDをよく知らないで先の新書に書いたということはないでしょう。
(一緒に読んだ、といいながら私は内容を断片的にしか覚えていないのですが)
「この本全体に漂う竹内氏の軽いノリにはうんざりさせられます。」
まあ、うんざりはしなんだけど、私は竹内作品の中ではあまり好きではないです。全部「仮説」という言葉でくくるのはいかがなものかと思っています。軽いノリはおそらく編集者の赤がかなり入っているのでは?まあ、本人は了承して出版したのだから、軽いノリと言われるのは仕方ないでしょう。普段科学書・科学啓蒙書を読まない人が手に取ったという点では、他の竹内作品に比べポイントが高い(しかし、あそこまで砕かないと大衆に受けいれられないのか)。
残念ながら、初期作品『脳・心・遺伝子VS.サムシンググレート』と『トンデモ科学の世界』は読んでいません。私の読みたい分野じゃないし。
「「と学会」の本をお読みになっていない(^^;」
えーと、確かにお読みなっていないと思います(^_^;)
128. ながぴい
— July 8, 2006 @16:33:40
というのは「意図的パンスペルミア」仮説。
「知的設計者」(Intelligent design, ID)仮説
というのはどちらかというと、
「生物の器官やそれを構成する蛋白質複合体は複雑過ぎて、適者生存の結果としての進化だけでは説明できない。なんらかの知的存在が意図的に手を加えた結果だと考えるべきだ」
という反進化論的な仮説。
これは、「創造論」が宗教であるという理由でアメリカの公立学校などから締め出されたことに対抗して作られた代替的な仮説である。つまり純粋に科学的な仮説と考えるより、政治的宗教的な意味合いが大きいと考えるべきである。
というのがわしのIDに対する認識なんですが、
違うのかな?
129. アマサイ
— July 8, 2006 @22:22:06
IDは一応科学的な考察として出されたのではないでしょうか。
それをいろいろ政治的に利用している人はいるかもしれません。
神を擁護しているかのように記述しているIDであるが、宗教家も困惑、うちとは関係ありませんな、的に発言しているというのは朝カルで取り上げた論文に記載されておりました。
家に帰ってからゆっくり比較検討してみるので、また後日書きます。
もちろん、普通の宗教家(キリスト教も含め)は困惑するのが当然です。普通の宗教家には関係ないんで
131. nakanishi — July 8, 2006 @22:58:31
うーん、IDは説明すべきものを仮定してしまっているので、普通の意味では科学とはいえないと思います。「普通の科学者」でIDを科学的考察と思っている人は、非常に少ないのでは、、
逆に、普通の宗教家は、科学の領域とは住み分けているので、困惑しているのかもしれませんが。
という意味で、IDは普通の科学でもないし、普通の宗教でもないのかな〜
132. ながぴい — July 9, 2006 @00:45:22
どなたか御存知であれば、詳細きぼんぬ。
133. たかぎF — July 9, 2006 @01:10:30
参考→ http://transact.seesaa.net/article/19334918.html
134. Kosuke — July 9, 2006 @05:20:30
そりゃ、まともな宗教家はそう言うでしょうね。
私の知る限り、日本でIDに好意的(つうかプロバガンダしている)なのは統一教会くらいのものです。
http://transact.seesaa.net/article/19903924.html
ID派のスティーヴン・マイヤー米ディスカバリー・インスティテュート科学文化センター所長によると、
>有力なピアレビュー付きの科学雑誌を含め数百の論文を発表している。
(これ↓の本文13段落目)
http://www.worldtimes.co.jp/special2/id/060605.html
そうですが、論文名や掲載誌がわからず、なんとも言えません。
136. YMN — July 9, 2006 @19:22:19
>IDは一応科学的な考察として出されたのではないでしょうか。
身分証明書に類する書類の発行には必ず身分証明書に類する書類が必要です。
そしてそれらの書類を手繰って行くとけっきょく戸籍に繋がることになります。
何々をもって何々を定義する再帰というプログラムの手法があり、例えばNの階乗は
1、Nの階乗はN−1の階乗にNをかけたもの。
2、1の階乗は1。
と表現されます。
身分証明をもって身分証明するリンクと幾分似ていているかと思います。
囲碁で生きている石とは生きている石に繋がっていることで、そして2つ以上目があることが生きていることのお墨付きの出発になります。
科学的に正しいということは科学的に正しいことに関連づけられているわけですが、科学は数学と異なり正しいことの出発点に相当する明確なものは存在せず、漠然とした「科学的に正しいこと」のリンクの塊ということになるかと思います(不変ではなく時代の流れの中で修正されたりもします)。
で、唐突に設けた仮定で現象がいくらうまく説明できたところで、仮定が他とのリンク無しの浮き草状態ではとても科学的考察とは言えないことになります。
137. ながぴい
— July 10, 2006 @14:12:53
へ〜、
このブログはどういう方が作ってるんですか?
138. たかぎF — July 10, 2006 @19:52:14
> このブログはどういう方が作ってるんですか?
どういう方、といわれても、面識があるわけでもないので、ながぴいさんがあのブログで得られる情報以上のものは私も知りませんが…
大量のID関連の記事を読んで淡々とツッコミを入れていらっしゃる方、ですね。100匹目のサルの話でライアル・ワトソンが引用した、河合雅雄氏の論文なんかも読んでらっしゃるようです。
139. ながぴい — July 10, 2006 @21:24:25
世の中にはいろんな趣味の人がいますね。
よく書けてる部分も多いし、仮説にも白から黒まであるって書いてありますね。正直、僕が書きかけている文書と共通するところもかなりあって、困りました(^^;
ただ、真っ白な仮説や真っ黒な仮説が後にひっくり返った例を挙げることに一所懸命で、肝心の「真っ白な仮説や真っ黒な仮説がひっくり返る可能性は極めて低い」という"重み付け"の問題がほとんど無視されているので、それは賛同しがたい。まずは"重み付け"、それから、「とはいっても」ということでないと相対主義になっちゃう。
IDの扱いはやっぱり無邪気すぎると思いました。
141. ながぴい
— July 12, 2006 @16:30:06
実戦でホメオパシー擁護派がこの本を持ち出してきたのを目撃してるので、
それほど寛容にはなれませんでした。
よってミクシイのレビューでは、かなりボロクソに批判してます。(^^;)
IDについては無邪気というより、意図的に盛り込んでるんじゃねえのか?
とも勘ぐってしまいますけどね…。
「99.9%」は相対主義的に理解される可能性が高いですね。
143. ながぴい — September 20, 2006 @22:56:40
「世界でもっとも美しい10の科学実験」Robert P. Crease著、日経BP社
という本に詳しい話が載ってました。
(引用文献も載っているので、そのうち調べてみよう)
「背信の科学者たち」ではボロクソに言われているミリカンですが、
この本では(本のタイトルからわかるように)かな〜り肯定的に捉えられてます。
これ読んで「ミリカンてやっぱスゲェや」と思ってしまった私は感化されやすいのかな?
この本によると、ミリカンは初期の論文の中ではバカ正直に「実験結果の取捨選択をした」と書いてしまったそうで、それがそもそもの間違いだった、という見解です。(普通そんなことは告白しないで、実験家は論文には一番きれいにとれたデータを載っけるのが普通)正直に書いてしまったがために、論敵の批判にさらされてしまったようで、その後の論文では「すべての液滴を使った」とウソの報告をしてしまったようです。
油滴の実験はもともと非常に難しいものなわけで、いつもうまくいくとは限らなかった。
ミリカンはデータを捨てた場合は、なぜ捨てたのか、その理由も「電池の電圧が落ちた、圧力計が不調だった、対流が邪魔をした」とノートに書き残していたらしいです。
144. うま — January 8, 2007 @23:52:39
ちょっと気になることは、学校で道徳の授業に水伝が使われている例は
結構ありそうなわけですが、理科の授業でも使われたりもしているんで
しょうか?そういうことがなければ、今のとこ、学校の授業では水伝が
科学の領分にまでは入り込んではいない、ということではないでしょう
か。
もちろん、道徳の授業で水伝が取り上げられて、それが科学的だと誤解
する人達が多く出ることは問題だ、と思います。ただ、道徳の授業から
水伝を排除するよりも『道徳の授業なんだから、別に科学的な話をして
いる訳ではないでしょ?』という一種のリテラシーが広まることの方が
いいように私は思います。水伝は道徳としても好ましくないよ、という
見解もあるかもしれませんが、それは「科学的見解」ではありません。
私自身は「道徳の授業の存在」自体を好ましいように思いませんけど。
146. うま — January 19, 2007 @08:13:33
例えば、「創価学会は良くて江原さんは駄目」という判断はニセ科学問題と
直接の関係はないんですよね
なんの話をしているかによるでしょうね
半分だけ取り出せばわかりますよ。「創価学会は良いか」という質問だけでは、なんだかわからないでしょ。科学の話かもしれないし、政治の話かもしれないし、宗教の話かもしれない。
148. pooh
— January 19, 2007 @08:54:09
> 例えば、「創価学会は良くて江原さんは駄目」という判断はニセ科学問題と
> 直接の関係はないんですよね
例えば「直接の関係」といった言葉を使うときに、ご自分で「その言葉をどういう意味で使っているのか、自分の意図の伝わる使い方をしているのか」といったようなことを吟味してからお使いになったほうがいいかと。
そうでないと伝わらないことも多いし、議論のテーブルにも上げてもらえませんよ。
提示されている疑問の大半は、既にこのブログか、ここからリンクされているサイトやブログで議論されています。あなたにとっては疑問でも、ここを読んでいる多くの人にとっては「蒸し返し」である可能性があります。
まずは、あれこれ読んでみてください。改めて提議しなくても、抱いていらっしゃる疑問に対するたくさんの考察や回答が見つけられると思いますよ。
149. うま — January 19, 2007 @20:02:40
稲葉振一郎先生→小飼弾先生→きくち先生
と辿り着いています。ざっと見ただけですが、たざき
先生ので私が非常に気になった点があります。しかも、
その文章にはその点についての詳しい説明がないです。
(本当はあるんだけど、私が気が付いていなかったら
すみません。そのときはご指摘下されば深甚です。)
それは、別コメントにします。
相手にするに値しない論です
151. うま — January 19, 2007 @20:13:12
>「これは、ただのお話です」と言ってしまったら、「水からの伝言」を
>つかった授業はうまくいかないと思います。
私は、この文章が非常に気になりました。まず、自己防衛になりますが、
『うまくいかない』というのは一体、どういうことを言ってるのでしょう
か?いや、たざき先生を責めている訳ではなくて、これは自己防衛です。
pooh先生
>その言葉をどういう意味で使っているのか自分の意図の伝わる使い方を
>しているのか
------
本題に入ります。私は「うまくいかない」とは断言できないと思います。
断言することは、水伝を授業に使っている先生の逃げ道を塞ぐことになり
却って反発を招くのではないかと危惧をします。むしろ
水伝は科学的に正しくはないが、その科学的には正しくないと
いうことをちゃんと意識して、生徒達にもこれはお話(創世記
みたいに?)だよ、ということを理解させて、使う分にはOK
なんじゃないか。しかも、道徳的なお話と科学的見解は異なる
ものだ(←相対主義?)ということを理解させる上でも、良い
題材にもなるかもしれない
という逃げ道(+私の場合は相対主義の普及)を作った方が、つまり、全
否定ではなく部分否定に限定することにより、理解を得られる先生が多く
なるのではないかと思うのです。しかも、先生の主眼が「道徳的効果」に
あり、ニセ科学批判の主眼が「科学でないものを科学だと誤解することを
防止すること」にあれば、このようなことがあれば、双方にとって幸福な
ケースだと思うのです。最初からこのような可能性を否定してしまうのは
もったいないな、という思いです
『そのようなケースはほとんどない。水伝はお話としても、学校から排除
すべきである』というお考えもあるかもしれませんが、私はそういう気に
なれない、ということですけど(←バカ相対主義者?)
152. A-WING
— January 19, 2007 @21:08:06
おっしゃりたいことはだいたいわかるんですが,そもそも「水伝」のお話は道徳的にもまずいので,どっちにしろだめですよ。なんの教訓も含まれてないですから。
いちおう書いて起きますと,水伝が訴えるのは「美しいものは善,醜いものは悪」という教訓なので,道徳的にだめなのです。
153. うま — January 19, 2007 @21:36:50
水伝が「道徳的にダメか?どうか?」は科学とは関係ないですよね。それに
水伝が道徳的にダメか、どうかは、人によって考えが違うのは普通なんじゃ
ないでしょうか?「道徳的にもダメだと断定する」のは私は得策ではないと
思うのです。もちろん、「道徳的にもダメだ」とご判断されるのも当然あり
なんですが、少なくとも、道徳的判断は科学と直結しないことは、批判側の
きくち先生もご主張されているような気がしたので、私は嬉しかったんです
いずれにしても、科学で根拠づけなければなにを伝えてもいい、という意味ではないわけですから。
「水伝」はさまざまな意味でだめなんです
ぜひ、今店頭にある「論座」(朝日新聞社の雑誌)の特集を読んでください。言いたいことは、だいたい書いてあります
>道徳を科学で根拠づけようとしている
その部分がなくなれば、「ニセ科学批判」の文脈からは
切れる訳ですよね。その可能性は「水伝の定義によって
有り得ない」というのは論理的には分かりますけれど、
わざわざそんな定義を採用しなくてもいいように思って
しまうのです。
>科学で根拠づけなければなにを伝えてもいい、という
>意味ではない
それはそうなんですけど。じゃあ「道徳的にもダメか、
どうか」というのは【特段の理由がなければ】ニセ科学
批判と別の文脈の問題です。
もっとも、それなら科学者以外のほうがふさわしいだろうと言われれば、そのとおりです
たとえば、corvoさんは「表現者」の立場から「水伝」を批判しておられますし、poohも「水伝」を批判するのはむしろ文系知識人がやるべきことであるという立場を表明しています。
僕の意見は「論座」のほかに↓に
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/mizuden_doutoku2.html
また、「水伝」授業と闘ったお母さんの記録が
http://doralin.blog17.fc2.com/
にあります。これはぜひ読んでください
157. pooh
— January 19, 2007 @21:59:41
えぇと、先生はやめてくださいな。
端的に言うと、まず、「水からの伝言」は科学的に問題があって、さらにA-WINGさんもおっしゃってるように、倫理的にも非常に狭量な主張なんです。さらに、依って立つ美意識も非常に一面的で、多様性を否定しています。これはそれぞれ独立した欠陥じゃなくて、「ニセ科学」を成立させるような発想から一元的に生じるものです。批判の角度としては複数あるので、例えばぼくのところではここと違う角度からの批判を試みています。
いくつもの考え方ができる、根源的な大きな問題点をニセ科学は内包しています。このブログは量が多くて大変ですが、コメント欄をベースに相当多岐にわたる多角的な議論が行われているので、ゆっくり読んでみていろいろ考えてみてくれればな、と思います。
きくちさん、たざきさんの考え方については、ご本人もおっしゃる通り今販売されている「論座」2月号をお読みになるのが分かりやすいと思いますよ
158. うま — January 19, 2007 @21:44:20
>小飼さんの「創価学会にも文句を言え」は論理もなにもない、単なる
>言いがかり
はい、この話に関連して書いたんですが。要は、ニセ科学批判の流れで「創価
学会に文句を言う必要がないなら、江原さんに文句を言う必要も多分、あまりないんですよね?」ということが言いたかったのです
こなみ先生
>江原氏はニセ科学を語っているわけではないので,私が表立って批判する
>立場にはないのです
僕は今、意図的にそのふたつをわけていますが、しかしその境界はあいまいです。もともと曖昧なものなのです。マイナスイオンはオカルトから遠いけど、たとえば、「水からの伝言」はニセ科学ともオカルトとも捉えられます
実は無理に分けなくてもいいのだけど、話をなるべくクリアにするために、分けているだけなのです。江原氏はオカルトなので、ニセ科学批判のすぐ隣にいます。ニセ科学と一緒に批判するというのは、当然「あり」です
「創価学会に文句を言え」という小飼さんの話は、それ自体が無意味な言説(文句を言えという理由が話にならない)なので、それとこれとは別。創価学会について思うところはあるのですが、ニセ科学でもオカルトでもないので、ここでは言いません。
>ないので
全くそう思います。ただ、「道徳的にもダメか、どうか?」は、もしも、
水伝から『ニセ科学で道徳的判断を根拠付ける部分』が消えた
ならば、それはニセ科学批判の文脈からは離れたものになり、科学的か、
どうか、とは関係のない話になる。これを最低限、私は確認したかったと
いうことになるか、とは思います。
しかし、一般論として、『ニセ科学で道徳的判断を根拠付ける部分』がないなら、当然「科学的かどうか」とは関係ない話になります。
科学とは別の観点から、考えればいいわけです
162. うま — January 19, 2007 @22:49:07
そもそも公立の学校で(地方分権的な判断もなく)道徳の授業なる
恣意的なものが一律に押し付けられていることの方が気になります
でも、「道徳の授業など、やめてしまえ」という主張をしたい人は、そういう運動をするとか、キャンペーンをするとか、してもいいと思います
164. TAKESAN
— January 19, 2007 @22:14:02
うまさんへ。
良い言葉に触れさせた水が綺麗になるという主張から、科学らしさを切り離したら、水伝では無くなりますよ(どう切り離せるか解りませんし)。そもそも、自然科学と道徳心を結び付けてしまっているのが、水伝なのですから。
実際、江原氏を批判するというのは、そもそもニセ科学批判の文脈では無いでしょう。江原氏等に対しての批判は、個別の問題ですから、それは、色々な人がいるでしょう。確かに、ニセ科学とオカルト的な言説を同一視する様な見方をしてしまい、きくちさんが出演された番組を観て、オカルトも否定しろ、と言っている人はいますが。それこそ、切り離して考えるべきでは?
>科学らしさを切り離したら、水伝では無くなりますよ。
だから、私はそこがよく分からないんですね。もちろん、
定義の問題と言われればそれまでなんですが、繰り返しに
なっちゃうんですけど、私自身はそれは相手をこちら側に
引き付けるという点で、その定義は採用しないほうがいい
ように思ってしまう訳です。
また、その定義で言えば、例えば「綺麗な言葉を掛ければ
心理的に結晶も綺麗に見える」に変更になったりとかで、
水伝に似てはいるけれども水伝ではなくなれば、それで、
少なくともニセ科学批判のレベルではOKである、という
ことを確認したかったんですけれど。
現時点で、「水伝」はアウトです。それで充分だと思いますが
167. TAKESAN
— January 20, 2007 @00:08:15
>例えば「綺麗な言葉を掛ければ
>心理的に結晶も綺麗に見える」に変更になったりとかで、
>水伝に似てはいるけれども水伝ではなくなれば、それで、
>少なくともニセ科学批判のレベルではOKである、という
>ことを確認したかったんですけれど。
申し訳ありませんが、ちょっと、意味が読み取れませんでした。
168. disraff — January 20, 2007 @00:10:28
>少なくともニセ科学批判のレベルではOKである、ということを確認したかった
なんでそこまでして水伝だか水伝に似たものだかを「OK」にしたいのか、動機が全く理解できません。あんなタチの悪いものを枉げて保全しなければならないほど、世に寓話が払底しているとは思いませんが。
でもって、ひょっとして水伝に限らない一般論のつもりなのでしたら、もう少しマシなものを題材にしませんか。
169. うま — January 20, 2007 @00:50:22
科学的には正しくないけど、道徳的にはありかもね
私の考えとは違って「道徳的にも駄目」というお考えもある
かもしれませんが、少なくともニセ科学批判レベルの話では
ないですから、区別した方がいいように思いますね。
もちろん、道徳的に使用するなら、同時に科学的には正しく
ないことも明確にすべきであるとは思います。
もちろん、僕たちは区別しています。「100歩譲って、科学的事実であるとしても、道徳としてだめ」と言っていますし、僕の「道徳を自然科学で根拠づけるべきではない」は、「科学的事実であっても」ということです。
上にも書きましたが、corvoさんやpoohのブログもどうぞ。ニセ科学批判とは別の文脈で批判が展開されています。
>道徳的に使用するなら、同時に科学的には正しくないことも明確にすべきであるとは思います。
これはたぶんこのブログのどこかに僕も書いています。
「科学的事実ではない」と明言して、それでも道徳授業に使えるというなら、使ってみればいいと思います。僕はそれでは無理だと思いますが、先生の技術の問題かもしれません。
その場合は、ニセ科学問題ではなく「道徳としてどうか」になります
171. うま — January 20, 2007 @01:02:19
だから、綺麗な言葉を使うようにしましょう♪
こういう小学生相手の道徳があるとして、それが特に駄目で
あるとは、私はほとんど思わないんです。
「そんなはずはない」という子供にはどういいますか?「お話だから、かたいことは言うな」と言いますか?
「水伝道徳」的な筋書きで子供に授業ができると思う人は、子供の知性も感性も馬鹿にしてるんですよ
173. corvo
— January 20, 2007 @01:16:22
うまさん。
では、綺麗な言葉とはなんでしょうか?
汚い言葉とはなんでしょうか?
それらをきちんと区別して、分けることができるのでしょうか。
言葉とは人対人の間で交わされるから理解出来るものであり、その文脈において様々に変化するものです。
174. うま — January 20, 2007 @01:37:42
ボ効果が利くこともあれば、あんまり利かないこともある。
利かないからと言って駄目な患者であると言う医者がいたらその医者こそ駄目でしょう。
確かに正確には、「綺麗な言葉を使うと綺麗に見えることが多い」というべきなのかもしれません。
「その結晶はきれいじゃない」という子供に対する対処を考えてください。それで授業が成立します?
ちなみに、「水伝」授業で疑問の声を上げたたために、先生に怒られたという生徒の例は複数報告されており、しかもその中には完全に教師不信になった生徒もいたそうです
これには理由があって、「水伝」の本質が「不寛容」だからです。この問題については「論座」でもぎろんしました
176. うま — January 20, 2007 @01:43:29
綺麗な言葉も主観です。綺麗な結晶も主観です。ただ、その
二つが心理的に繋がり易いことはありうる、と考えることが
おかしいとは思いません。というか、ニセ科学の批判をする
のにもこういう考えを持ち出すことも多い気もしますけど…
177. うま — January 20, 2007 @01:48:49
大人相手の方が使うことが多いような気がするんですけど。
>「100歩譲って、科学的事実であるとしても、道徳として
>だめ」
これだけ取り出すと、ニセ科学批判が主眼ではなくて、道徳
的に駄目であるということを主張するのが主眼であるように
見えますけど。今まで私は「ニセ科学批判」が主眼であると
思っていたんですけど、これは私の誤解だったでしょうか。
そうだとしますと、『科学的に正しくないことは認めるし、
それだけではなく、それを生徒に説明をしている。しかし、
道徳的にいいと思うから使う」という先生は私はOKだ、と思っているんですが、明確に意見が対立しますね。むしろ、
私の方が「ニセ科学批判」を主眼においていることになる。
「水伝」の場合、「ニセ科学であること」と「道徳としてだめであること」は非常に深いところでつながっています
どちらかを選ばなくてはならない理由はありません
僕は
(1)「水伝」はニセ科学である
(2)「水伝」は道徳としてもだめ
(3)扱う対象が科学であってもニセ科学であっても、「道徳を科学で根拠づけようとするべきではない」
と主張しています
僕にとってはどれも重要です。
別にすべてについて同意していただく必要はありません。
しかし、現状で"ニセ科学ではない「水伝」"は存在しないので、仮定の議論はしてもしょうがないです
『科学的に正しくないことは認めるし、それだけではなく、それを生徒に説明をしている。しかし道徳的にいいと思うから使う」という先生の授業が本当に行われているなら、その先生の話を聞きましょう。そういう例がないなら、仮定で議論するのは無駄です
179. うま — January 20, 2007 @02:14:15
もしも科学的に真実だとすると、却って道徳的には駄目だと
私は思います。それは客観的な結晶の形で、主観的な綺麗を
規定するようなことになるからです。むしろ「綺麗」という主観と「綺麗」という主観を繋げるだけなので、逆に道徳に
使ってもいいと私は感じるようです
「綺麗な結晶が道徳的である」という理由が説明できますか? そのことと「人を見かけで判断してはならない」という道徳は両立しますか?
181. pooh
— January 20, 2007 @06:10:36
少し古くなりますが、ぼくのこちらのエントリをお読みください。
http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2006-11-21
http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2006-11-23
http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2006-11-29
ニセ科学が、ニセ科学である故に道徳的に駄目な理由、について考察しています(そのことそのものがテーマではありませんが)
あなたは残念ながら、「自分の感覚を正当化するために発言を繰り返している」ような印象を与えています。
「全体として議論を進めるために発言している」ようには見えません。きくちさんは丁寧に対応してくれていますが、このブログを見に来る1日1万人を超えるひとたちから見ると、あなたは「個人的な疑問でひとりで議論を停滞させているひと」に見えてしまいます。自論に固執して省みないひと、と云う印象も持たれてしまいます(こなみさんがおっしゃっているのはそう云うことです。自論に執着して他人の発言から示唆を得られないひとは、議論に参加するには未成熟で、「子供」です)。
ここは、だれかが「自分がこう感じる、こう思う」と云うことを解決してもらうための場所ではないんです。それはまず、自分が解決することです。
182. pooh
— January 20, 2007 @08:29:19
ニセ科学が批判されているのは、それが社会的現象だからです。端的に云って自然科学的角度からだけ見れば、冗談としてもできの悪いただの与太話ですので。
でも、ニセ科学は「科学的根拠で倫理や道徳を説明しうる」かのように主張する。<strong>しかも</strong>、その科学的根拠がでたらめで、それを指摘すると「これは科学ではなくてファンタジーだ」などと言い出すわけです。これは方便でなくて、ダブルスタンダードです。
このことが社会に受け入れられ、蔓延するのは、自然科学的にも、社会科学的にも問題です。しかもそれが「言葉」と云う要素を含むために、人文科学的な問題でもあるのです(ある言葉の持つ意味が文脈や状況によって変わってくる、と云うのは言語の重要な本質のひとつです。文脈や状況から切り離された言葉は、それ自体では正確な意味を持ちません。その意味でうまさんの「例えば、『創価学会は良くて江原さんは駄目』という判断はニセ科学問題と直接の関係はないんですよね」と云う問いは、ここにおける議論の文脈と切り離されたものですので、残念ながらあまり意味がないわけです。自然科学者はニセ科学の自然科学的側面のみを問題にすべきだ、とお考えなら、そもそもこの場所で問うのが場違いですよね)。
道徳の授業、と云うものの存在意義そのものをここで問うのは、逆に議論を拡大しすぎています。小飼弾さんのところからこちらに来られた、と云うことなので、弾さんのエントリに対するぼくのエントリも参考になるかと。
http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2006-12-24-1
(ちなみにあの議論において、論客としての弾さんの信用と云うのはだいぶ堕ちてしまったと思います。これも残念なことですが
183. corvo
— January 20, 2007 @10:08:24
「先生」を付けるのはご容赦願いたいです。
「ニセ科学」批判を自然科学の側面にだけ分けることも、道徳的側面にだけ分けることも不可能ですし、意味の無いことです。
それが分からないということであれば、議論のしようがありません。
僕のblogでは、主に道徳的側面ということから、授業に使うことの是非、美意識の押し付けになるのでは、といった部分に焦点をあてて議論が行われてきました。
http://www.studio-corvo.com/blog/karasu/archives/2006/11/post_248.html
http://www.studio-corvo.com/blog/karasu/archives/2006/11/post_251.html
http://www.studio-corvo.com/blog/karasu/archives/2006/11/2_13.html
184. 田部勝也
— January 20, 2007 @11:00:48
たぶん、誤解です。少なくとも、ここで積極的に活動されている方には、そんな近視眼的な人はいないと思います。また、うま氏のような誤解に迷惑されている方がほとんどだと思います。
例えば、『しゃべらなかったけど大事なこと』エントリでの柘植さんのコメント(↓)
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1166547413#CID1168910604
などをご覧下さい。以下引用です。
====================
ニセ科学批判の世界はそういう傾向がもっと激しい気がする訳です。きくちさんやこなみさんが「合理的思考とはそういうものではない、こういうものだ」と伝えたい真の目的の一里塚として「この話はニセ科学だ」という事例提示をされているのに、「そうかニセ科学をけなしたいだけだな」としか受け取らない人が沢山いるわけで、決して悪意ではないのだけど、そういう人たちがきくちさんたちの目的を「ゆがめて見せている」面が目立つ気がする訳です。
多分、私には道徳的に駄目な水伝と別に問題のない水伝と
いうのがある、という自論が皆さん方が一番、納得がいか
ないところのように思いますので…
まず、『私が特に問題のないと思う水伝』とはどのような
ものか、ということをまずご理解いただいてから、それは
「道徳的に問題があるぞ」という点をご指摘いただければ
いいと思うのですが、どうでしょうか
私が道徳的に問題のないと思う水伝とは以下のようなもの
です
人は綺麗な言葉を聞く(何が綺麗であるかは
聞く人の主観です)とそのときに物が綺麗に
見える(何が綺麗かも見る人の主観です)と
いう傾向があります。その実験として、水伝
的なものをいろいろ使います。(もちろん、
実験ですからいろいろな結果が出るでしょう。
また失敗した実験があっても理科の授業でも
よくあることですから、それが別段に問題の
あることでないと思います。失敗も含めて、
授業の一環と捉えてたらいいと思います。)
さて、そこで『人は綺麗な言葉を聞くとそれ
だけじゃなくて、他の事まで綺麗に感じたり
することがあります。聞く人が綺麗だと思う
言葉を掛けることにはこんな影響もあるので、
綺麗な言葉を使うようにしましょう。』
大体、こんな感じです。水伝的なものを『心理学実験』と
して位置づけて、それを道徳の授業の中で用いる、という
ことになるかと思います
186. うま — January 20, 2007 @13:10:25
水伝は自然科学実験としては使えないけれど、
心理学実験としてなら有りである
というのは、「水伝が科学として駄目であることは当然と
して、それだけではなくて、道徳的にも罷りならない」と
いう話の持って行き方に比べると、全否定を回避した部分
否定になっている分だけ、相手には受け入れ易い。だから
こっちの方がいいと思う、というのが私の主な自論です。
187. うま — January 20, 2007 @13:25:57
>「合理的思考とはそういうものではない、こういうもの
>だ」と伝えたい真の目的
上で「合理的思考」の部分を「科学的思考」に置き換えて
しまうと、これはほぼ「ニセ科学批判」のことですよね。
「ニセ科学批判は主眼ではない」ということは
科学的思考という狭い範囲だけにとどまらず、
例えば道徳的な判断も含めて、広く合理的な
思考とは何かについて社会に啓蒙を発信する
ことが主眼だということになりますでしょうか。そうだと
すると、私の自論のように「間違った道徳的判断」を展開
する者に反論することは、主眼に合致しているんですね。
私の自論について、道徳的にどこがマズいのか、をご指摘
いただければ、と思います。
188. TAKESAN
— January 20, 2007 @14:28:47
corvoさんが紹介されたエントリーをお読みになるのが、宜しいかと思います>うまさん
189. うま — January 20, 2007 @15:09:06
「私の考える問題のない水伝」の場合は、綺麗かどうかは
聞く人、見る人の主観であって、聞いて綺麗だと感じると
心理的に物も綺麗だと感じる傾向にあるという考えなので、
これが「corvo さんが紹介されたエントリー」により否定
されるようには思えないのです。よろしければ私の水伝と
corvo さんの批判との関係を説明していただけませんか。
PS.ジョン・レノンがオノ・ヨーコの店(?)に訪れて
梯子を上がったところにあったのが「YES」と書かれた
キャンバスだった。それが二人の始まりだった、みたいな
エピソードがあった気がします。
それが出会いです
191. corvo
— January 20, 2007 @15:24:56
読んでも分かっていただけないということであれば、それはあなたに理解する力が不足しているということです。
これ以上、不毛な議論は無駄でしょう。
192. 田部勝也
— January 20, 2007 @16:17:14
意味不明。なぜ勝手に置き換えるの? 置き換える目的は何? うま氏の書き込みは万事がこんな感じなので、まったく会話にならないんですよね。
>うま氏「私の自論について、道徳的にどこがマズいのか、をご指摘いただければ、と思います」
いろいろな立場・見方からいろいろな問題点が指摘されるでしょう。心優しい方々が放置を決め込んで、うま氏本人が自分で考え気づかざるを得ない状況にしてあげようと配慮しなければ、それこそ山のように。私はまだまだ自尊心が老婆心を遥かに上回る未熟者なので、名指しされた以上、釣られてしまうわけですけど。
私の観点からだと、屁理屈で何が何でも自分を正当化しようとして、自分の非の可能性についての自省が全くない態度を助長し、自分に対する批判を素直に受け止め受け入れる態度を否定するように見える点がマズいです。
また、うま氏の言う「道徳的に問題のないと思う水伝」は、「相手に(相手の主観で)気持ちの良い事を言えば、相手は気分が良くなる」──という当たり前の事を、「水伝」という不確かな根拠で示すという事で、一見して馬鹿馬鹿しいです。
次に、「水伝」信者は、うま氏の言う「道徳的に問題のないと思う水伝」を確かに受け入れるでしょう。自分にとって都合のいい部分だけを。これをきっかけに転向させられるなどと思うのは、世間知らずの机上の空論に感じますね。うま氏が実際に自分の方法で「水伝」信者を転向させたという経験を語るまでは、誰も相手にしないでしょう。むしろ、潜在的に「水伝」を信じるかも知れない資質を持ったまだ信者未満の人に対する皆さんの活動の邪魔になります。
さらに、「聞いて綺麗だと感じると心理的に物も綺麗だと感じる傾向にある」という事は、初等教育の道徳でわざわざ教えたり考察させたりするような題材ではないです。これを学校の授業で教える目的は何? 「いい言葉をかけていれば、そいつに多少醜いコトをしても良く受け取ってくれるから大丈夫」って事を教えたいの?
最後に、「綺麗かどうかは聞く人、見る人の主観であって、聞いて綺麗だと感じると心理的に物も綺麗だと感じる傾向にあるという考え」というのは、ホンモノの「水伝」とは完全に別物の全く異なる考えです。そんなモノに(部分的とは言え)「水伝」の名前を付けて言いふらされたら、「水伝」に真剣に取り組んでいる人たちにとっては、これ以上ない大迷惑です。
193. A-WING
— January 20, 2007 @16:03:13
>人は綺麗な言葉を聞くとそれだけじゃなくて、他の事まで綺麗に感じたりすることがあります。
>聞く人が綺麗だと思う言葉を掛けることにはこんな影響もあるので、綺麗な言葉を使うようにしましょう。
ようするに,「相手が喜ぶような言葉を使いましょう。(転じて,傷つけるような言葉は使わないようにしましょう)」て話ですよね。
このことを教えるのに,わざわざ水伝をもちだして,教師の信用をかけてバクチを打つ必要はないと思いますよ。
「バカって言われると嫌な気持ちになるよね。自分が嫌な気持ちになるような言葉は,人にも使うべきではないよね。」ぐらいでいいんじゃないでしょうか。
簡単な方法が他にあるのに,こうまで苦労して「水伝」を教材として使おうとする必要はないと思いますよ。
194. TAKESAN
— January 20, 2007 @17:14:04
うまさん(186)>「私の考える問題のない水伝」の場合は、綺麗かどうかは
聞く人、見る人の主観であって、聞いて綺麗だと感じると
心理的に物も綺麗だと感じる傾向にあるという考えなので、
「綺麗」が主観的評価であるならば、そもそも、水伝的な実験は全く必要ではありません。いや、すべきではありません。
綺麗な言葉を聞いている時に、物が綺麗に見える傾向があるかどうか(正直、うまさんの書き方では、具体的にどういう事を言っているのか、全くイメージ出来ません)、というのは、実際、心理学的な対象でしょう。まさか、綺麗と思っている言葉を聞いて、その時に(一体何が?)どう見えたかを言わせて、「心理学実験」などと仰る気でしょうか。もし、ある程度心理学的に妥当な実験を行おうとすれば、その時点で、全く水伝など関係無い話になります。
「corvoさんが紹介されたエントリーをお読みになるのが、宜しいかと思います」と書いたのは、そもそも水伝が、自然科学と道徳を分かち難く結び付けた説である事を知って頂く為です。「問題のない水伝」とか、「私の水伝」などという表現は、余りにも意味不明です。
水伝を「心理学実験」として位置づけて使う訳ですが、
どうしてそれが『バクチ』ということになるのか、を
できましたら説明していただけませんか
私は積極的に、水伝を使え、と言っている訳ではあり
ません。例えば、使いたいと言っている先生方や既に
使っている先生といった人々を、こちらの側へと引き
付けるためには、全否定を回避して部分否定(+部分
肯定)を使った方がよいだろうと主張しているのです
少しきつい言い方をさせていただきますと、全否定を
すべきとする方達からは「水伝なんて使っている奴は
まず自分のアホさを自覚させて、反省して貰うところ
から始めて貰わないとね♪」みたいな彼らを見下した
動機を感じてしまうのです。あくまでこれは、印象の
レベルでの話でありますが、このような印象を与えて
しまうことは説得においては無用かと、思う次第です
最低限、「論座」に僕たちが書いたことを読んでください
それから、どこかで紹介した「水伝授業とたたかったお母さんのブログ」とcorvoさんとpoohのブログも読んでください
基本的な話はそのあたりで尽きています
「道徳的にも科学的にも問題のない水伝授業」の実例を見つけられたら、報告してください
その時点で議論を再開しましょう
197. disraff — January 20, 2007 @21:54:14
>使いたいと言っている先生方や既に
>使っている先生といった人々を、こちらの側へと引き
>付けるためには、全否定を回避して部分否定(+部分
>肯定)を使った方がよいだろうと主張しているのです
「こちらの側」というのが奈辺のことやら怪しいものですが、本当にそんな意図なのだとすれば“見下している”のはあなただと思います。いわば相手を理性のある大人として扱うな、と言ってるわけですから。
あるいはあなた自身が、部分的にでも肯定してくれない相手の言う事は聞けないようなメンタリティの持ち主なのでしょうか。
198. うま — January 20, 2007 @22:49:21
>ニセ科学ではない「水伝」は存在しない
それは「水伝の定義」次第です。『あえて』ニセ科学ではないものも
水伝の中に滑り込ませて、こっちの水伝だったらOKだ、という風に
論を持っていったほうが、「言葉が結晶の形には影響しない」という
事実を相手は受け入れ易くなると主張しています。私の主張の源泉は、
以下に要約できるかと思います。
水伝を信じている人に対して
言葉が水に影響を与えるなんてことはないけれども、
それを見ている人の心理に影響を与えて結晶が綺麗に
見える、ということはある。だから、貴方が「綺麗な
言葉を掛けたときに、綺麗な結晶ができた」と感じる
ことはもっともなことで全然、おかしなことではない
と言う方が、
言葉が水に影響するなんてことはない。バカなことを
言うな
と言うよりも、『言葉が水に影響しない』ことを相手に受け入れて
貰いやすいのは道理でしょう。だから、相手をバカにしたいという
ことでもなければ、前者のような対応が望ましいということです。
------
それから、菊池先生が道徳という言葉で何を表現されているのか、
正確には分かりませんが、「ペースメーカーへの影響があるので
電車では電源を切るべきである」と教えるためには影響があると
いう事実の存在が必要だ、と思います。これを道徳と呼ぶのかは
ともかくとして「道徳の授業」の中でこのようなことが扱われる
ことはあると思います。
199. うま — January 20, 2007 @23:05:24
>あるいはあなた自身が、部分的にでも肯定してくれない相手の言う
>事は聞けないようなメンタリティの持ち主なのでしょうか。
はい、私にもメンタリティとして、そのような傾向はあると思います。
ごく普通の事だと思っていたのですが…
>「道徳的にも科学的にも問題のない水伝授業」の実例を見つけ
>られたら、報告してください
同じ事を書きますが、それは「水伝の定義」次第です。
私は、「所謂、水伝」を信じてはいない人達同士の間での定義の
問題を言っているのではなくて、『説得相手(具体的には水伝に
好意的な人)に対する』場合については例えばこのように定義を
変えて使うことで、多少なりともこちらの印象が良くなるので、
説得の効果は上がり易くなる、と言っている訳です。
201. うま — January 20, 2007 @23:38:19
はい、店ではなくて個展での話みたいですね。
ジョンとヨーコ
http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/john-lennon-yoko-ono.htm
>その日友人に不思議な日本人女性アーティストのことを紹介
>されたジョンは、彼女の個展を
>梯子を登った先の天上に小さく書かれた「YES」の文字の暖
>かさにひかれます
202. うま — January 20, 2007 @23:46:20
綺麗な声で言われた方がつい話を聞いてしまったり。私は自分自身を
含めて(特に水伝に好意的になるような人達とか)、そんなもんだと
思うんです。
203. グレートパンダー — January 20, 2007 @22:39:15
はじめまして。うまさんの書き込みを興味深く読んでいます。
背伸び少年と言われて否定しないのですから、うまさんは少年といえる年齢であるし背伸びしているという自覚もおありなのだと思います。
うまさんの書き込みを読むと、背伸び少年だったころの自分の恥ずかしい行動が思い出されて胸をかきむしりたくなります。数年後、うまさんも今の自分の書き込みを思い出すと恥ずかしくていてもたってもいられないようになるんじゃないかと思います。こんなことを言っても昔の私にはわからなかったでしょうし、今のうまさんにもおそらくわかってもらえないでしょう。
わかってもらえなくても元背伸び少年としては、何か今のうまさんに背伸び少年から脱皮するのに役立つことを伝えたい。当たり前の、おそらくうまさんも知識としては知っている方法だと思いますが、お伝えします。
うまさんの書き込みを自分の書いたものではなく、こういった話題を話あえる友人が書いたものと思って読み返してみてください。自分が書いたのではないとしっかりと思い込んで読むようにしてください。
他人のものとして読み返して感想はどうでしたか?
1.なかなか、いい意見じゃないか。
2.もうちょっと考えて書いたほうがいいんじゃないか。
うまさんの感想が1に近いものだったら私に言えることはもうありません。
2に近いものだったら、どこが考えが足りないか考え直してください。書き込みの動機が何か考えてさい。動機と考えの足りなさに関係があるかどうか考えて下さい。
さて、私のこの書き込みの動機は、背伸び少年だったころの自分に言ってあげたいことをうまさんに仮託して言っているってだけなんですね。できれば、うまさんには背伸び少年から脱皮してもらいたいと思います。でもそうならずに今のような書き込みを続けてくれても私はうれしいのです。なぜならばうまさんの書き込みを読むのは私にとって良質の羞恥プレイであり快感をもたらすからです。
いろんな意味で応援していますのでがんばってくださいね、うまさん。
204. たかぎF — January 21, 2007 @00:02:00
> 『説得相手(具体的には水伝に好意的な人)に対する』場合については
> 例えばこのように定義を変えて使うことで、多少なりともこちらの印象が
> 良くなるので、説得の効果は上がり易くなる、と言っている訳です。
それは,うまさんが実際にそうやってどなたかを説得した経験からおっしゃっているのですか?
それとも「"脳内" 説得相手」との対話ですか?
後者ならあまり意味のある議論にはなりそうにないですね.
貴方のような書き込みを見ると
あ〜あ、この人は私を説得したくて書いているん
じゃないんだな。多分、バカにしたいのでしょう
と思う訳ですよ。これでは説得は無理です。あっ、でも
説得が目的ではないからいい訳か、失礼しました。
206. うま — January 21, 2007 @00:37:55
大変、申し訳ないですけど、グレートパンダーさんの
ように説得ではなく、バカにすることが目的になって
いる方が多く見られるような気がします
『ニセ科学批判の需要』がこのようなものであっても
構わないとお考えでしょうか?
207. うま — January 21, 2007 @00:42:41
菊池誠先生に是非、お読み頂きたいのですが(直接的な返答はなくていいです)
グレートパンダーさんや鴨先生のような態度を取る方が
多いと「科学者や科学嫌い」が増えてしまうと思います
科学理解にとって大変にマイナスです
208. 亀@渋研X
— January 21, 2007 @00:58:09
わたしは小学生の我が子が水伝だのゲーム脳だのを学校の先生から聞かされて来るので弱っている保護者です。教員対応を論点にされているようなので。
・「全面否定は受け入れられにくい」というのはわかります。だからといって内容批判までも部分否定に留めようという主張は、内容そのものの検討を脇に置いてしまっているという意味で危険です。また、情緒にのみ依存しようというのは相手の理解力に対する侮辱です。
・主に「水伝」を授業に使ってしまった教員を批判する場合でも、「児童生徒の生活態度の改善をしよう」「なんとか教材開拓をしよう」とする熱心さなどは認められることが多いでしょう。そういう形での「部分的肯定」は、直接の問題指摘の現場では行なわれていることが多いと思います。少なくとも私はそのように考えているので、水伝先生との対話の際には忘れずに申し上げました。多くの保護者は、我が子を学校に人質に取られているのも同然だと考えていたりしますので、同様の配慮はしているでしょう。なにも肯定するのは内容についてである必要はないわけです。
・一方、うまさんの「わたしの水伝」は、それが「水伝」なのかはともかく、音声や映像などによる印象操作という話に容易に結びつきます。言葉や映像などの意味するものよりも、演出で引き起こされる情動に着目させ、本来の意味を見失わせるものとなり得ます(といううか、完全にそうなのかもしれない)。メディアリテラシーの教材としては有効かもしれませんが、それでも小学生という段階での教材としては、かなり神経を使う必要のある、難しい教材となるでしょう。今の学校で扱ってほしいとは、私には思えません。
・小中学校での教育という面で考えるなら、むしろ「キレイな声でささやかれる口当たりのいい言葉は受け入れやすい。しかし、願わくばガラガラ声で述べられる受け入れ難いと思われる指摘でも、それに耳を傾け、受容すべき真実が含まれていないかを考え、正しい答えにたどりつけるようになろう」がまっとうでしょう。
・これをクリアできている「いい大人」なら、内容に関して全否定されてもヘコたれますまい。熱意や人格まで否定されたわけではないのだから。
ところでグレートパンダーさんの直前の投稿は、本当にうまさんを応援しているのだと思いますよ。私も背伸び少年だったから、そう思いたいだけかもしれないけど。
209. うま — January 21, 2007 @01:49:54
とても丁寧なレスありがとうございますです
直接的な教員対応でしたら、私のものよりも亀さんの言うようなやり方がいいと思います
どちらかと言うとネットやマスメディア上で
水伝に好意的な人々(教員含む)に対して、「言葉は水に影響しない」ということを受け
入れて貰うにはどういう態度がいいのか、と
いうことを考えています
私自身は学校の授業で『私の水伝』が使われ
ても、使われなくてもどっちでもいいです。
水伝を好意的に感じる人達への説得のための
論理として、「こういう使い方ならいい」と
言った方が相手は受け入れ易いでしょう、と
いう話です。(蛇足:ここら辺の相手を感化
するための配慮みたいなのは、芸能人とか、
江原さんとかの方が科学者よりも、圧倒的に
上手いでしょう。例えば、エロカッコいいの
人をバカだ、とか科学者が不用意に言うのは
私なんかは却って科学嫌いを増やしてしまう
ように思います)
私は『内容にOKのものをあえて付け加えて
それならOKだ、と話を持っていく』という
ことを考えているので、駄目なものを良いと
言うという話ではありません。
「問題ない内容」を相手の主張の中から引き
出すというか、滑り込ませる、というか…。
「無知な貴方に教えてあげている」みたいに
ならないようにする。「その人が自分自身で
考えて、その主張が受け入れられた」という
ように感じるようなそんなやり方をした方が
いい。江原さんのような人はそういうことを
していると思います。江原さんの言う内容が
いいかどうかは知りませんが、自分がいいと
思う内容を相手に受け入れさせる技術という
点では見習っていいことも多いと思います。
特にマスメディア上で発言するときとか…。
ただ、恐らく、これは「ニセ科学の批判」が
商業ベースに乗り難いためにそういう技術の
支援(タレントさん、とか、CM会社のノウ
ハウとか)を受けるのが難しい、という点で
そもそも不利な部分もあると思いますが…。
なんか「弾さんの用心棒論」みたいですね。
そもそも教育でも自分で考えて導き出して、
それを先生がいいねと言った、とかの方が
生徒もやる気出る、と思うんです。←少し
脱線しましたけど。
でも、科学者ってロマンティストというか、
理想主義的な人が多い気がします。こういう
考え方は不純な感じがして、相手というより
自分自身を裏切っているようで受け入れられ
ないという人も多いのかもしれません。でも、
それならば研究発表のプレゼン能力の向上を
学生に求めないくらいの一貫性は欲しいかも。
私自身は弾さんの用心棒論がしっくりきます。
まず、亀さんは「水伝授業」の被害者であって(娘さんが授業を受けた)、しかも、それをやった先生と直接議論したことがあるわけ。その重みくらいは理解できるといいのではないでしょうか。亀さんの「渋研X」ブログを読んでください
doralinさんのブログは読みましたか。もし、被害を受けた人たちのブログを読んでいないなら、読むべきです。
それから、ここで本当に議論をしたいと思っているなら、よそのブログに「ここの科学者はひどい」とかひそかに書くのはフェアではないし、あちらでは本名を名乗り、こちらでは「うま」とだけ名乗るのもフェアではないと思いますが
212. アルビレオ — January 21, 2007 @05:40:01
ここではもう「批判のしかた批判」はさんざんやりつくして皆うんざりしています。
さすがに過去のコメントを一通り読めとは言いませんが、
「そんな議論は何も生み出さない。そんなことに労力を費やすより、自分にできる範囲で自分が正しいと思うやり方でニセ科学に対処していく方がいい」
ということで落ち着いています。
だから今さらうまさんが「問題ない内容をきくちさんや他の人たちの主張に滑り込ませよう」としても、何も変わらないでしょう。
213. と — January 21, 2007 @08:29:32
プレゼン能力は必要です。
もちろん、きれいな写真をたくさん使って間を持たせようとか、グラフごとにスケールを変えて差があるように見せかけようだとか、姑息な印象操作はダメです。しかし、研究の目的はその面白さがきちんと伝わるように話さなければなりませんし、論点は整理して提示しなければなりません。実際の研究では行きつ戻りつ試行錯誤したことも、一本道で研究したようにまとめる必要があることもあります。プレゼンをした結果、相手に正しく自分の意見が受け入れらて、その時初めてメリットが出てくるわけです。
あと、念のため付け加えておきますが、うまさんの提示した「心理学実験的な『水伝』の捉え方」というのはよくありません。たざきさんが書かれているように、彼らの実験から懸念されるのは、ある結果を期待して実験したときに、その結果が起こるようにバイアスが掛かるということです。彼らがきれいな結晶を選んだのは、そのような結果になってほしいと考えたからではないのか、ということです。主観的なものから結晶がきれいに見えたなどという話はどこにもありません。変な取り繕いをするために話を勝手に変えてしまったら、江本氏に対しても失礼です。
214. pooh
— January 21, 2007 @09:52:48
もしあなたが、「あなただけのためにある訳ではない場所」でこれだけのひとたちが「あなたのため」にこれだけのことを言ってくれていることの意味を理解できる人間だとすれば(ぼくはそう願い、信じてますけれど)、自分の発言とみなさんがおっしゃっていることをもう一度すべて読み返してから、次の発言をして下さい。分からないところがあれば分かるまで、知識が足りないところがあればちゃんと勉強して。
それができない人間だとすれば、もうここでの発言はやめたほうがいいです。
あるいはぼくのところで、「あなたのようなタイプのひと」についてのエントリを立ててもいいです。そこでお話ししましょう。
あなたを見ていると、自分の若い頃の姿を思い出して、どうにかしてあげたい、と思う方が多いようです(ぼくも大昔、きくちさんに平気で噛み付くような中学生だった頃を思い出します)。みなさんの姿勢はとても真摯です。あなたがみなさんの言葉をちゃんと受け止めるだけの真摯さを持てない人間だとは思いたくありません。どうか、すべて読み返して、咀嚼して下さい。
あぁ,「批判のやりかた」と「説得のやりかた」のお話だったんですか。論点が発散的に広がるので,なにがおっしゃりたいのかとんと解りませんでした。
批判の方法や説得の方法は,アイディアだけなら幾らでも出てくるので,議論はきりがないです。シミュレーションを数こなしたって,そのことで直接誰かが説得されるわけじゃありませんから。各個が思う方法で,地道に個別に対応していくしかありません。(方法が確立されたら,「説得学」なんて学問が出来るかもしれませんね)
強制するわけではありませんが,とりあえずご自分で色々やって見られて,うまくいったら自分のブログで「こうしたら説得できた」みたいな記事を書かれると,誰かの役に立つかもしれません。
情報の網羅性やアクセスのしやすさといった点でも,一箇所にまとめることは意味があると思います。
216. うま — January 21, 2007 @11:27:15
はい、説得のやり方の話です。
説得の目的が何であるかによって、どういう説得のやり
方が良いかが変わってしまう。ですので、「主眼?」と
いうことを問題に出しました。
正しい科学を受け入れないものはバカで
ある。だから「正しい科学」の話をよく
聞きましょう
という説得をしたいというときの説得のやり方と
言葉は水に影響しない、
言葉は水に影響するということを物理的
事実として教えるべきではない
ことを説得する場合で説得のやり方が違う、ということ
です。
一つには、その人が「何のために説得しようとしているか」を区別した上で、私は主に後者の目的を持っている
人に対してこういうやり方はどうでしょう、とやりたい
訳です。「私のやり方」が前者を動機とする方達に受け
入れられるのはもともと期待できないと思っています。
あと、私の場合には、「科学大好き」を増やしたいとは
全く思いません。「科学嫌い」を増やさないとか「特に好きだという訳ではないが、どちらかというと科学には
いい印象がある」という人達が増えるといい、と思って
います。これに関しても、どちらが目的なのかによって
科学啓蒙のやり方が変わってくる、と思います。
「批判のやり方批判」が紛糾するのは、何を目的に批判
するのかによって、適当な批判の仕方が変わってしまう
ことにもあると思います。目的が違う人が批判の目的を
明らかにせずに、「こういうやり方がいい」と言っても
確かに混乱するだけになるんだろうな、とは思います。
217. A-WING
— January 21, 2007 @12:55:46
>批判のやり方批判」が紛糾するのは、何を目的に批判するのかによって、適当な批判の仕方が変わってしまう
ことにもあると思います。
そこまでわかっていらっしゃるんでしたら,「批判の仕方」の議論が不毛であることも,お解りになるんじゃないでしょうか。
あと,「知識とバカ」の話をしますと,ある経験年数において常識とされる知識が不十分であった場合,「バカにされる」ことは,社会の事実としてあります。
それが良いことであるとは言いませんが,完全に否定するものでもないと私は思います。
だって,どんなバカなことをやっても全部肯定してくれる人間なんて,私は信用できないですから。
私なら「こいつはオレをぁゃしぃ宗教にはめようとしてるんじゃないか」と疑ってしまいます。
自分が愚かだということを,間接的にも直接的にも一切他人から指摘されず,匂わされることもなく,自分の至らなさに全て自分ひとりで気付かなければならない社会なんて,あまりにも厳しすぎると私は思います。
218. うま — January 21, 2007 @13:31:22
こういう目的(主眼)ならば、こういう
やり方がいい
という話の持っていき方なら、あまり不毛にならない
んではないか、と思っているのです。但し、皆さんの
主眼(目的)があまりにバラバラだと確かに難しいで
しょうね。『私が想定した主眼』に近い目的を持って
いる人があんまりいなかったんだとしますと、結局の
ところ、場違いな振舞いをしていたようです。どうも
すみませんでした
219. たかぎF — January 21, 2007 @14:05:20
> 正しい科学を受け入れないものはバカである。
> だから「正しい科学」の話をよく聞きましょう
> という説得をしたいというときの説得のやり方と
> 言葉は水に影響しない、
> 言葉は水に影響するということを物理的事実として教えるべきではない
> ことを説得する場合で説得のやり方が違う
ここでコメントしている人はおそらく皆,後者の立場です.
うまさんが後者の立場で,且つ,うまさんの論法に他の人が賛同しないからといって,他の人が前者の立場をとる,あるいは後者の立場をとらない,ということではありません.
繰り返しお尋ねしますが,うまさんは,うまさんがおっしゃるやり方で実際にどなたかを説得した経験がおありなのですか? もしそうならば,その具体的な経験をお書きになれば,他の人にも得るものがあるでしょう.
しかし,実際に説得を試みたことがなくて,うまさんが考える「脳内説得相手」を説得するには他のやり方はダメでうまさんのやり方がよい,という話であれば,有効な議論になるとは思えません.実情を見ないで勝手な仮想説得相手をつくりあげても意味がないからです.
きくちさんが,doralinさんや亀さんなど実際に"被害"をうけた人のブログを読むべきだ,と繰り返し勧めている意味を考えてみてください.
えーっと・・・・
さすがにここまでくると,単に勘違いしてるだけじゃなくて,なんらかの事情があって人の話を意図的に曲解しようとしてるんではないかと。というか私個人的には,うまさんはそれが目的なんだろうなと判断しました。
実際どうであるかは解りませんけど。
もしかしたら,うまさん自身も自身の真の目的に気が付いてないという場合もありますし。
とにかく,うまさんと有意義なコミュニケーションを計るには,こちらが払うコストが膨大になりそうなので,コストパフォーマンスの点から,失礼ながら席を外させていただきます。
221. うま — January 21, 2007 @14:34:09
保護者と先生の関係における「直接的な対話」ならば、
例えば、亀さんのようなやり方がいい、と思います。
そうではなくて、例えば「何となくタレントがいいと
言っているから」というレベルで起こるマス的反応に
対する対応として、『マスにどう呼び掛けるのか』と
いう問題を念頭においていただけるといいと思います。
-----
> doralinさんや亀さんなど実際に"被害"をうけた人の
> ブログ
ブログはちょっと覗かせて頂いたのですが、「具体的
被害」というのが、あんまり見えてきませんでした。
先生が間違ったことを言うことは普通にあることですし、そこを指摘するとしてもうまくやらないと先生と
関係が悪くなることは、ニセ科学に限らず普通にある
ことです。ブログを(少しだけですが)見て「おお、
そんな被害があるのか。それは想像できんかった」と
いう感じはしませんでした。私が見過ごしてしまった
だけの可能性も大きいと思いますので『想像するのは
難しいが、実際にはこんな被害がある』ということを
指し示していただければとても参考になると思います。
222. うま — January 21, 2007 @15:07:51
保護者と先生の関係ならば、その先生のいいところを
見つけることができるので「亀さんのやり方」を使う
ことができます。不特定の人(教師と限定しても)を
相手にする場合はその手が使えないのです。そういう
ときに「こんな考えは駄目です。そんな考えは止めな
さい」ではなかなか説得が難しく、もとからそういう
考えは駄目だと思っている人達に需要されるだけ、と
いうことになりがちです。だから、一つの例として、
「問題ない水伝」というのを提案しました
要は『そういう考えをしている人に劣等感を与えない
ような周到なレトリックが必要だ』ということです。
「問題のない水伝」だけではレトリックとしては弱い
かもしれませんけれど、少なくとも、劣等感を与えて
しまったら却って「科学嫌い」が増えるということは
言えると思います
223. と — January 21, 2007 @15:37:40
何故被害なのか、また、何故全否定しなければならないのかと言うことは、すでに、たざきさんが、まとめられているとおりです。
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/md/class.html#2
まあ、たざきさんが挙げた問題をクリアした形で、うまさんがレトリックを使えるというなら、是非成功例を報告してください。
224. うま — January 21, 2007 @16:17:58
分かっている訳です。
「たざきさんが挙げた問題」。なぜそこから全否定
するレトリックを使わなければならないのか、全く
不明ですけれど?
ただ、ROMの人たちに向けて、「信者」を転向させようとする試みについて、次の文章を再掲しておく事は無駄ではないと思うので、紹介しておきます。
『「水からの伝言」と反証問題』エントリ(↓)
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1163435860
===【以下引用】==========
「信じていない人たち」からは多くの提案があるのですが。ここではっきり言っておきますが、「信じていない人」の提案なんか、なんの役にも立ちませんよ。信じている人の気持ちは信じている当人にしかわかならないのですから。
===【引用終了】==========
「信者」を転向させる試みについての議論は、実際に「信者」を転向させた経験に基づくもの以外は、世間知らずの背伸び少年の机上の空論──というのが、長年に渡る数多くの幅広い実践経験を持つこの場での暗黙の了解事項だと、私は理解しています。
226. うま — January 21, 2007 @16:21:37
そんなことは『CM好感度調査』のようなことを
しなければ分かりませんからね。しかし、通常、
こういうレトリックを使えば効果がある、とか。
これでは、逆に嫌悪感を与えてしまう、とかいう
ことはあると思う訳です
しかし、皆さんのお陰で私自身の考えが整理でき
ましたので感謝します。結局のところは、水伝に
好意的な不特定の人を説得するためには、
劣等感を与えないレトリックが必要だ
ということが言いたかったということになります
227. と — January 21, 2007 @16:24:21
水伝を勝手に改変するのは、よろしくないとすでに指摘したはずです。それと「学校で嘘を教えられている」を併せれば、否定しなければならないと言う結論は動きませんが。もちろんやり方を考えなければいけないと言うのは、リンク先を読んでいただければ、うまさんの指摘を待つまでもなく十分書いてありますよね。「問題のない水伝」等を持ち出しても「一つの嘘をつくと、百の嘘が必要となる」結果になるように思いますが。
228. と — January 21, 2007 @16:33:20
うまさんが何か行動を起こされたと言うなら黙ります。
229. うま — January 21, 2007 @17:02:37
「問題ない水伝」は劣等感を与えないようにするための
一つの例です。これが嘘か、どうかは「定義」次第です
から、特に問題があるようには思いません。効果の程は
分かりませんが。内容的に嘘でなければ言葉尻において嘘をつくことは基本的に問題はない、と思っています。
極端な例としては、昼にお早うございますと挨拶する。
ネット上などで、劣等感を与えないレトリックで取り
込みを図る、ということはしていきたいと思います。
と言っても、私の関心は「水伝」そのものというより
『科学嫌いを増やさない』ことにあるようですので、
ちょっとずれてしまうかもしれませんが。その点で、
やはり場違いだったのかもしれませんね。
私自身の関心は、弾さんの
>もっと「確信犯」になった方がよいのではないでし
>ょうか。そしてもし自分たちが「影響力の拡大と有
>効活用」という、浅ましく「非科学的」な活動に向
>かないということであれば、もっといい「用心棒」
>を雇った方がいいのではないでしょうか
に近いという気がします。
231. と — January 21, 2007 @17:30:19
ただ、彼らはニセ科学を見分けることが出来なかったわけです。もし、それを出来るようになる方法を易しく教えられると言うのであれば、それは素晴らしいことです。しかし、「口当たりの良いニセ科学」の代わりに「口当たりの良い科学」を提示して丸呑みさせるだけであれば、結局はまたニセ科学に騙されてしまいます。また、昨今の納豆の件では、大学教授がテレビで適当なことをしゃべっていたそうです。何かの権威に判断を丸投げすると言うことも危険です。
そして、私は、ニセ科学に気が付くためには、無理な単純化とか強引な因果関係の推定といった「ごまかし」に敏感にならなければならないと思います。そこで「ごまかし」たものしか知らなければ「ごまかし」に気付かないのではないかと思います。
232. かも ひろやす — January 21, 2007 @18:48:09
背伸び少年にとって大切なのは、反応があった事実のみです。反応の内容は関係ありません。本人に都合良いように適当に脳内変換されますので。だから、どんな形であれ、背伸び少年への返事の形でコメントを書くことは、背伸び少年の妄想の強化につながります。
同じ内容を背伸び少年への返事ではなくギャラリーへの解説の形で書くことを提案します。背伸び少年の支離滅裂さを分析し、ゆえに、この人物と対話に実りはないという結論を、ギャラリーへの解説の形で書くのはいかがでしょう。もちろん、これも背伸び少年に届かないのは同じですが、妄想強化はこころもち弱くなります。なにより、ギャラリーにとってはそっちのほうが有意義です。
情報の提供も同じです。「背伸びなんかせずに踏台を使えよ。ここにあるから」と複数の人が親切にも背伸び少年に助言してくださっていますが、ご覧のとおり、背伸び少年には届いていません。これも、ギャラリーへの解説の形で、「この背伸び少年がダメダメなのは目の前にあるこんな便利な踏台を無視して背伸びをしていることにある」と書いてはいかがでしょう。
なお、「顔も名前も知らない無礼な背伸び少年の成長に配慮する義理はない」というのも(皮肉ではなく)正論ですので、背伸び少年への返事の形でコメントを書くことを非難する意図はありません。その辺、ご理解ください。
233. うま — January 21, 2007 @18:55:51
>「科学的」に思えたから信じた、のであって、
>「非科学的」だから信じたわけではないのです。
なるほど、確かにそうかもしれません。
>彼らはニセ科学を見分けることが出来なかった
>わけです。もし、それを出来るようになる方法
>を易しく教えられる
易しく以前に、そのようなことを教えるのはほぼ
不可能だと思います。というのは、私にしたって
たまたま「言葉が水に影響する」であれば科学的
事実でないことは分かりますが、その他のことに
ついて科学的事実であるか、どうかを見抜けるか
どうか、と言われれば、見抜けないこともあるで
しょう。だから、「口当たりの良いニセ科学」に
対しては「口当たりの良い科学」で対応するのが
良い、と思うのです。科学である以上、内容面で
嘘にはならないようにしないといけませんけれど。
学校で教えている理科の実験は、そもそもデモン
ストレーションであると言われるからして、それ
自体が「口当たりの良い科学」にしか過ぎません。
科学嫌いについて危惧することは、「ニセ科学を
信じていて『科学』は嫌いではないと思っている
人」が口当たりの悪い科学を押し付けられた結果、
ニセ科学は好きだけれどもまともな科学者の言う
科学は嫌い、という事態に陥ってしまう可能性が
あるということです。内容的に間違っているので
なければ、できるだけ口当たりは良い方がいいと
私は思うのです。
全ての科学は大小の差こそあれ、誤魔化しが必ず
あると思っています。そうでなければ使い物には
なりません。しかし、個別にこれにはどういった
誤魔化しがあるのか、ということについて敏感で
あることはできるでしょう。でも、全てについて
敏感であることは労力との兼ね合いから不可能と
思います。
>その代わり我々がとった手段というのは、自ら
>検証する代わりに、それを検証した人々を「信
>じる」というやり方でした。アインシュタイン
>の理論が広く「信じられている」のは、それを
>信じている人々が自ら実験したためではなく、
>まず実験した科学者たちを他の科学者たちがそ
>れを「信じ」、それを見た人々が「彼らがアイ
>ンシュタインを信じるなら私も信じる」という
>信用連鎖が起こった結果です。
>「なぜそうなるのか」を考える余裕は、いつも
>あるとは限らないのです。ましてや科学者たち
>の伝言より「水からの伝言」に耳を傾ける人々
>はそうでしょう。もし科学者たちが、「水から
>の伝言」ではなく自らの伝言を人々に伝えたい
>と欲するのであれば、やはり伝言のやりかたに
>はもう一工夫必要なのではないしょうか。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50723326.html
このコメントは明らかに「議論が決裂した」ことを宣言しています。これは議論の最中に書くべきものではありません。この場をさよならしたあとで「あそこはひどかった」と書くならわかります。そうするべきものです。
「根拠もなく否定」という根拠のない書き込みを他所でした上に、ここでは知らん顔で議論を続けるというのは問題でしょうね
単なる「背のび」だと思っていましたが、違ったようで、残念です
引用されているヨーコのメッセージに対しては、「論座」に僕たちからのメッセージを掲載しています。でも、まだ「論座」を読んでいただいてないのでしょうね。議論の基盤となる僕たちの考えをまったく理解しようとされないのが残念でした。
すでにそれなりに長い議論が行われているのですから、多少なりともそれをきちんと理解しようとしてくださっても罰は当たらないと思いますが。
いずれにしても、本当にここまでです。
...................
「うま」(川崎恭治)と申します。
菊池誠先生のブログ(http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog
確かに水伝は自然科学としては正しく
ないだろうけれども、心理学実験として
扱うなら、問題がないと思います
というような主張をしました。そこで多くの人が、根拠の説明もなく、私の考えを否定しました。
でも、科学者と言っても、このような人達ばかりではないことは知っておいて欲しいと思います。
------
オノ・ヨーコからのクリスマス・メッセージ 2004
『私たちはみんな水である』
http://www.dreampower-jp.com/peace/xmas_messege.html
私もこの件についてうまさんと対話する試みはやめることにします.
236. うま — January 21, 2007 @20:31:35
>「口当たりの良いニセ科学」に対しては「口当たりの
>良い科学」で対応するのが良い
というのが、基盤(正確には何であるか分かりません
が)と対立してしまうんだと思います。基盤と「科学
嫌いを増やさない」ことにはトレードオフがあって、
難しいのだと思います。
>「根拠もなく否定」という根拠のない
「根拠の説明もなく」です。私はそう思いましたので。
237. 田部勝也
— January 21, 2007 @21:03:48
貴重な体験談を提供してくださっている多くの方々が、どれだけ相手の善意や面子を尊重・配慮し、相手の理性を信じ、誠心誠意をもって粘り強く説得を続けてこられた事を切々と語っていらっしゃるにも関わらず、安楽椅子に引き籠もったまま、これほど人を愚衆扱いし侮蔑し見下して、平然と良いことをしてやっている気分に浸りきっている人間がいる事に、どうしようもなく悲しくなってきます。
欺瞞でもって自分に都合のよい言説を広めるやり方を非難している場で、自説を啓蒙するために欺瞞を用いることさえ当然のように主張する姿勢にも、怒りをおぼえずにはいられません。
このような厚顔無恥な人間を育ててしまった社会の責任を思うと、あまりに悲しくて、なにも手につきません。
238. と — January 21, 2007 @20:07:34
まず一点考えないといけないのが、程度問題と言うことです。
水伝がらみは常識で否定できますし↓
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/md/exp2.html
健康食品がらみ(ゲーム脳も)は↓のようなフィルターにかければほとんどクリアできます。
http://www.metamedica.com/news2001/howto07.html
なにも最先端の物理理論の間違い探しをせよと言うわけではありません。知識と言う点から見ればかなりの部分は高校生までの範囲でカバーできます。宣伝に量子力学が出てきても、実際の効能を見れば普通の知識で対処できるといったものがほとんどです。
全部を理解できるものなど居ないと言うのは、この場合は関係ありません。
次に、デモンストレーションとエクスペリメントの違いを教えなければと言うのは、かなり昔からいろいろなところで言われています。それをおくとしても、デモンストレーションが現象の理解に役立っているのではなく、ただ何かを信じるための儀式にとどまっているなら、その事は教育に対して文句を言う十分な理由になると思います(改善されるかどうかは、さておき)。それを補うべく試みもされています↓。
http://atom11.phys.ocha.ac.jp/water/text01/index.html
頭から無理と決め付ける問題ではないと思います。
239. かも ひろやす — January 21, 2007 @21:13:21
同姓同名の有名人がいらっしゃいますね。あら、菊池さんとご同業ではないですか。
有名人のほうか方が同業者の前でこんな醜態を晒すことはありえないので、同姓同名の別人か偽名を名乗っているかどちらかですね。
うまさんの指導は稲葉さんに任せることにしたので、これで終了にしましょう
うまさんは、稲葉さんの指導を受けてください。以上
242. と — January 21, 2007 @21:13:00
>「根拠の説明もなく」です。私はそう思いましたので。
じゃあ、もうちょっと「口当たり良く」いいましょう。江本氏の実験は心理学実験ではありません。それを勝手に心理学実験とするのは嘘です。水伝は間違いですが、水伝ではないものを水伝とするのは、間違い以前の嘘です。ご理解いただけましたか?
243. うま — January 21, 2007 @21:47:39
きくち先生の『ネタバラシ』の後にも関らず、お付き合い
下さってありがとうございます。
まず、知識でどうにかなる訳ではない、と思っています。
例えば麻原に上祐が騙されたとか。私だって、今は水伝に
騙されはしませんが、「将来は」騙されることがあるかも
しれません。それよりも、とさんが書かれたようにフィル
ターのアクセスのしやすさや使い勝手の良さを向上させた
方が効果があると思います。これも「口当たりの良さ」に
繋がります。
>それを勝手に心理学実験とするのは嘘です。
それは「水伝の定義」次第です。説得のときのレトリック
として「定義を拡張してみたらどうでしょう」という提案
でしたから、私はそれが根拠になるとは思いませんので。
少なくとも、内容的な嘘ではないと私は考えます。
これまで書かれたことのすべては、ご提案もすべて含めて「無意味なたわごと」であったと認定しますので、「水伝は心理学実験云々」も含め、あなたの提案はすべて「無」です
ただし、それに対する皆さんのまじめな返答は、今後の読者の参考になると思います
今後、おいでにならないように
では、さようなら
あとは稲葉さんにおまかせします > 稲葉さん
>同姓同名でしょう。
凄い偶然ですね。私も驚きました。
皆さん、すみません。釣りでした。
246. と — January 21, 2007 @22:15:08
>下さってありがとうございます。
ほんとは止めたかったんですが、間違いを放置しておくのもギャラリーに対して不親切であると思いましたので。
だから、わざわざ「知識と言う点から見れば」と書いたのは、それを使いこなせるようになってほしいと…orz
最後に一つだけ。定義の問題ではありません。心理学実験であれば心理学実験なりの内容が無ければダメです。それが無い以上、水伝と偽って水伝ではない嘘話をしたことになります。水伝の人にそれを指摘されれば、すべてはそれまでです。嘘話で人を騙そうとした人間。それがうまさんの評価になります。
他人の研究を自分の恣意的に改変することは、最低のマナー違反です。卒論でそんなことをしようものなら、教授にぶん殴られるかもしれませんよ(^^;
247. kmori — January 21, 2007 @22:12:00
無駄ですよ。
「うま」氏はかつて黒木板にも登場していた、比ヤングという人物です。最近は「夫馬」「ふま」というハンドルを名乗ることが多いです。
いろいろな掲示板やblogに現れては迷惑行動を繰り返し、そのたびに追い出されている問題児です。
比ヤング
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/e0011.html
で、追い出されると2ch等に「何何先生の学問的誠実」というスレッドを立て、追い出した人の悪口雑言をひたすらかきまくるのが彼のパターンです。
そりゃあ、だめですね
もっと早く教えてくれればいいのに(^^;
ある意味、懐かしい、ですね
黒木さん、元気かなあ
あとは2chに「菊池誠の学問的誠実が云々」たらいうスレッドができるわけですね
まあ、2chは僕と関係ないからいいや
249. かも ひろやす — January 21, 2007 @23:50:52
いや、それは甘いです。菊池さんの専門分野を調べて、その分野の有名人を調べるのは、簡単なことです。それぐらい、やりそうな人物でしょう。
リサーチ不足?
ああ、なんか「騙った理由」がこの下に書き込まれましたが、「消す」という約束なので消しました。
251. D51 — January 22, 2007 @21:36:56
252. たざき
— January 23, 2007 @00:35:50
確かに、懐かしい。
253. じゅん — January 22, 2007 @22:27:50
日に何度もここは通うのは、皆さんが誠実で爽やかで、考えさせられるところが魅力だからです。(そして共通して品格とともに少し人の良いところが好きです)。
ですから傲慢な物言いをする人が現れると場を汚されるような気がしてしまうのです。 ここで紹介されるブログはすべて訪問していますが、kikulogに勝るところを知りません。
254. shabby — May 9, 2007 @23:45:26
こんな本が出ます。
リチャード・ドーキンス(著)
刊行日: 2007/05/25
〈ハヤカワ・ポピュラー・サイエンス〉なぜ神への信仰だけが尊重されなければならないか。アメリカでは無神論者がなぜ虐げられるのか。科学的な見地から明晰な筋道で神は不要だと論証する、著者積年の持論を思うまま展開した説得の書
なにが書いてあるか、興味深いです。
256. kmori — May 10, 2007 @13:17:50
Peope Who Shape Our World
http://www.time.com/time/specials/2007/time100
Dawkinsの紹介記事
http://www.time.com/time/specials/2007/time100/article/0,28804,1595326_1595329_1616137,00.html
257. kurita — May 10, 2007 @15:36:59
> こんな本が出ます。
お、日本語訳が出るのですか。 これはいろんな意味で面白い本です。 (著者はイギリス人ですが)現代のアメリカの状況を念頭に書かれている部分もあり、日本に住んでいる人には実感の持てないような内容もありそうなので日本語訳が出るのかどうか気になっていたのですが、それはよかったです。 (まぁ、最近は「スパゲティ・モンスター」も翻訳出版されちゃうぐらいですから杞憂ですか)
> 「神は不要」
ドーキンスはもっと積極的に、はっきり言ってしまえば「有害」だと主張しています。
(この本の内容の当否についてここで議論するつもりはありませんので、この本の主張に対して何か言いたくなった人はまずこの本を読んでからドーキンスにお手紙を書いてあげてくださいね)
その姿勢は徹底していて、グールドのように「科学と宗教は対立しない、相補うもの」というような考えや、原理主義者の反進化論運動に対抗するために科学者が(「敵の敵は味方」とばかり)穏健的な宗派とともに共闘する、というような考え方にも、彼は厳しい批判を加えています。
そんなこんなの“過激”な内容なのですが、文章はあくまでも冷静で明快で論理的でときどきギャグをかましつつ、「神」をめぐるいろんな話題に深く切り込んでいて、楽しく読めます。 直接の関係はあまりないかもしれませんが、「ニセ科学」批判活動をする人にはぜひ読んでもらいたい一冊です。 (著者の本意とは関係ないですが、こんな本の書かれる必要のない日本という国に生まれて本当によかった、なんて思えたりもして)
258. デザイン — December 27, 2008 @17:36:01
自然淘汰というだけでは、今の人間ですらインテリジェントデザインを自らがして進化しているわけですから不足を感じますね。
いわゆる「インテリジェントデザイン説」はキリスト教保守派による創造論の焼き直しであり、「どんな証拠を提出されようと、決して間違いと認めることはないだろう」という点において科学ではありません。
ほぼ同内容の「科学」もありうるとは思いますが。
「自然淘汰だけでは説明不足。だって不完全な現代人ですら、インテリなデザインを行って自ら進化しているでしょ?」
「取り敢えず上の路線で頑張ると、一体何が見えて来るのか?」という例え話を、作ってみました。
『進化する者』
ある日のこと。賢者修行中の若いAさんは、「腕試しとして、『ユルキャラ創造論』の概念を、街の人に受け入れさせてみよう。」と、考えました。さっそく街の広場で、演説を始めました。
「お集まりの皆さま。難しく考える必要は、無いのです。単純に、『地上に置ける全てのユルキャラは、我々に感知できない高次元に住むデザイナー達が、ある意図を持って創作した。』と考えるだけで、良いのです。」
「時折起こるユルキャラ騒動も、どこぞの見えないデザイナー達の仕業と思い込めば、良いのです。人類積年の疑問も、これで解決ですね。いかが?」
街の人たちは、口々に思いを述べました。
C:「何だかやけに、お気楽でユルいお説教なのデース。」
D:「ええ、確かにアタクシには、ただの言い訳に聞こえましたわ。ユルキャラの学習を、サボるための。」
E:「ほっほう!自分に都合の良い説を見つけただけで、満足している状態と見た!あの賢者さまは!ほっほう!」
F:「そういえばワシも、若いころは一人真実を知った気でいたのう。」
G:「思えば、勢いだけで自論を説く日々でしたわねえ。」
H:「そうですわねえ。議論中に勉強不足を露呈して、落ち込んだ事が何度も有りました。ですわねえ。」
I:「ふむ。たとえ面倒でも、地道に学習を続けた方が、結局は真理への近道と成る。しかし若い時期において、その展望を見渡す事は出来ない。これが10万年生きた我輩の、最終結論である。」
Aさんの試みは、失敗に終わりました。
失意のAさんは、「この上は、何としてでも街の人を見返してやりたい。しかしながら、『ユルキャラ進化論』を一から学び直すのも、面倒だ。」と思い、悩みました。思案した挙句、自分自身をユルく進化させる事に決めました。
やがて、ユルい進化に成功したAさんは、喜びに満ちた顔で言いました。「街の皆さま、はじめまして。わたくしは、B君です。」
街の人たちは哀れに思い、心からAさんに同情しました。『過去に受けた批判を糧にすれば自然に成長できます』
261. デザイン — December 31, 2008 @19:21:37
つまり、デザインと言うのは自分で理解と言うのがあってそれを組み合わせて行うことなのです。
これは何か物事を認識してそれがこのようなものだからこれと組み合わせてこういうデザインにしようかとか、そういうものがあって行われるのですね。
ですから、これをこう使ってみようというのもある。たまたま、生き残るのに役に立ったって言ってもそれで役に立ったからこれを使って生き延びようとする。これはもうインテリジェントデザインなわけです。
それで、生きたいとなぜ思うのか?それはそういう意思が生物に働いているからです。
262. デザイン — December 31, 2008 @19:34:08
つまり、生きると言う目的性これが最低限ある、進化論は目的論でないといわれるが実は、進化論で血縁淘汰などで利他性を問題視して乗り越えようとしたのはここに理由がある。
しかし、現代人が芸術性、価値と言うものを論じるところからしてどうやら、仮に自己存在性がエネルギーの本性であったとするとそれだけでないということになる。
進化論かインテリジェントデザインかと言う問題は自己を存在させるエネルギーの本質とは何か?というそういうものに結びつく問題だ。
じゃあ、あなたはいったい誰です。
264. デザイン — December 31, 2008 @19:50:00
しかし、そうなると我々を生かしているエネルギーレベル、あるいはそれを統制する存在からの意思が何かを決定し導く方向性がなければ、我々自体が何か意味ある存在として己のデザインを扱うことが出来ない。
つまり、エネルギーそのもののレベルに意思を求め進化をそれが原因とすれば、我々人間は己の進化や存在理由を全て知りうるはずであるが、そうはいかない別の意思によって生かされている存在であるわけです。
266. ジルベルト下大利 — December 31, 2008 @21:38:41
いや、生物は「これをこう使ってみようというのもある」なんてことは考えないですよ。
267. トンデモブラウ — January 1, 2009 @11:03:32
デザインさんの日本語はちょっと解りづらいのですが、「科学」のお話ではないメタな意見なので、ここでは誰もお相手してくれないかもしれませんね。
特に目を惹く意見ではないので、どこで開陳すればいいのか知りませんけど・・・
ただ、デザイン氏の場合は、それを重々承知でなおかつ知らん顔をしているのではないかという気はしますけど。
日本で「インテリジェント・デザイン説」に力を入れているのは統一教会系の団体です。そこんとこは、かなり重要です。「インテリジェント・デザイン説」の話をするなら、そういった政治的な側面をどう考えるかを明らかにしないと、危ないでしょう。
ラーメン。
269. デザイン — January 2, 2009 @10:20:48
つまり、科学そのものの基礎となる部分の話です。ダーウィンの自然淘汰というのは生物の基礎が出来上がってからの話で、本当はそれそのもので生物が進化したというのもおかしな話なのです。
私は進化学でいう化学進化の段階から見てみるとその化学合成の相互作用からして偶然の産物でないことを調べました。基礎を調べれば調べるほど相互作用の法則性というのが自由な様々な可能性、法則が崩壊してしまっているような状態から出てきたと見ざる得ないのが現在の科学の見解であり、それが自然にできたと見るのは不可能だという結論になります。
力や物質が生じる道理がない、存在する必要がない、そのような世界に突入してしまいます。
インテリジェントデザインは、それでも生じているのはそのようにせしめるには知的な存在は必然的に必要だとする理論です。それを科学で指し示すところまではできるという理論です。しかし、科学ではそれが限界だというのがそれに反対する科学者の気に入らないところだとは思います。
ただ、科学そのものはこのような世界観で影響は受けるでしょうが、科学は論理に合う正しいものを追求するそれは変わらないですから、間違った団体が扱うとすればそれは暴露されるのですから、そのようなことは気にする必要はありません。
化学合成について調べたと書いておられますが、実験されたということですか?
この手の問題では「できない」ことを証明するのは大変難しく、「できる」ことの証明があるかないかが重要です。じじつ、ミラー以来(ミラーの実験は設定に問題があると思われていますが)、生体分子が自然に合成されるという実験はあると理解していますし、宇宙空間でもさまざまな物質が見つかっています。
また、大変な偶然であったとしても、できてしまったらしかたありません。我々が「生命の起源」について議論できるのは、我々がここにいるからです。仮に生命の誕生と知性の進化がとんでもなく稀な偶然なのだとしても、我々がここにいるという事実は事実です。この点は難しい問題を孕んでいますが、おそらく今の我々には解決できないでしょう。生命が稀なものかどうかを知る最良の方法は地球外生命体探査だと思います。
「デザイン」はもしそれが科学理論であるとすれば、仮説として可能性はあります。ただし、「インテリジェント・デザイン説」は科学ではなく宗教ですから、科学の土俵では議論できません。
なお、インテリジェント・デザイン説が正しいとすると、そのデザイナーは「空飛ぶスパゲティモンスター」と呼ばれる生命体である可能性があります。
デザインさんも、まずはデザイナーは「空飛ぶスパゲティモンスター」であると仮定してみるといいかもしれません。それなら、少なくとも「キリスト教保守派の教義にすぎない」とは言われないでしょう。
271. トンデモブラウ — January 2, 2009 @11:11:25
デザインさんの思考が、どのような世界に突入しているのか皆目解りませんが、結論に至る経緯をもっと詳しく教えてくれると、もしかしたら解るのかもしれません。
教えていただかなくても結構ですけど。
きっとその突入した世界は、「科学」では・・・
創造デザイン的に言い換えると、丹下健三氏と丹下段平師匠以上に違うのかも?
272. デザイン — January 2, 2009 @11:31:27
ですから、科学の基礎となる世界は科学ではあらわせないということなのですが、その一歩手前までは科学で解けますし、それが実際に科学理論として応用できます。
結果として、このような力ができて水素ができた・・といってなぜ「そのような法則で固定されるのか」、それは「結果としてそのようになっている」ものあら導き出したもので「それが繰り返される法則であること」という結果以上のことを科学では問えないのです。
しかし、「完全なる自由な状態から均衡が破れて・・・」とか法則の繰り返しで求めようとすると多くの可能性が出すぎて、「可能性すべての宇宙があってその一つがこの宇宙だ」と理論物理では結論付けようとしていることを私は知っています。
しかし、このような結論は「この宇宙が存在していること、存在するのは当たり前だということを前提とする」理論であることは言うまでもありません。しかも「無目的にただ存在しているのだというのを前提とする」ものであるわけですから、確実にこれは我々人間が目的をもってものを創造することができるのに、「宇宙はそのような意思に導かれるはずはないという前提」であることは言うまでもないことです。
しかし、理論物理が言う「宇宙ができる前段階の自由な状態」そのものからは、何かが生じる可能性は0で、その段階は「今の状態にエネルギーの均衡がわずかでも傾いてた」と考えるときのみに可能性が生じます。それで傾かせ法則を作ったものはそれ以前に存在した法則そのものであるのか宇宙を創った意志であるのかを検討する必要があり、その検討する方法として・・・これも同じく結果から検討する理論ですから科学的手法です・・・それがインテリジェントデザイン理論です。
もちろん、こういう話はどこまででも遡れます。落語に似たような話がありますね。現在我々が科学として知っている体系が、そのどこまで有効なのかは、誰にもわかりません。宇宙ができて以降にしか有効ではないかもしれません。
宇宙の外側に「デザイナー」がいて、宇宙の誕生までを司ったが、その後は手を放して宇宙が「なるがままにまかせた」ということであるなら、科学と矛盾しません。それは検証不能の説であって、科学の対象ではないからです。
検証不能の部分について、なにを考えようと自由です。しかし、それは科学ではない。
もしも「インテリジェント・デザイン説」がその部分についてしかものを言わないのなら、それはそれでかまいません。それは宗教だということです。
いっぽう、この宇宙の中にデザイナーがいる、という話であれば、まったく別です。いわゆるID説は「宇宙の中にデザイナーがいる」という主張ですよ。デザインさんの話とは違います
274. デザイン — January 2, 2009 @12:05:39
「あ」と「か」を打ち間違えました。Kの押さえ方が悪かったようです。
力の始まりは相互作用の関係性の決定というものがどうしても必要です。
それは偶然では可能性のないことです。また、法則以前の問題ですから、必然でもないのです。物理的には偶然と必然を超えたものそのような第三者をここで考えなければいけません。
この宇宙ができて以降の相互作用の分化については、対称性の自発的な破れというメカニズムが働いたと考えられています。そこでは「偶然」が作用します。
そこに誰かの「意志」を考慮しなくてもかまわないということはわかっています。
276. 普通の電気設計者 — January 2, 2009 @13:33:29
何時も思うのですが、「今判らない事」が「調査中、研究中」ではなく、直ぐに「神(超越者)の所業」になるのでしょうか?
ある場面で不利になると、ちょっとだけ戦線を後退し、まだ未知である領域に逃げ込んで同じ事を繰り返す。ずるいですよね。
判らない事を受け入れられず、いい加減な超越者を出し来て、無理やり納得しようとする精神状態が、どんな経験に基づいているのかが、非常に興味あります。
似非科学に対応するには、正当な科学より精神病理や心理学が適すると思うのは、おこがましいでしょうか?
「今わからないこと」をそのまま保留にしておくことに耐えられないというのは、人間の本性なのかもしれません(技術開発者さんの言う「人間の基本仕様」)。そこをぐっと耐えて、「保留」と札を貼るのが理性なのでしょう。
「わからない」という状態に耐えられないから、「ズバリ言われ」たくなったり、陰謀論にはまったりするのですよね。
278. zorori — January 2, 2009 @16:10:49
自然淘汰や進化論にも困難があるということぐらい当り前でしょう。所詮、人間が考えた理屈なのですから完璧な完成形であるはずもなく、だからこそ科学者は研究を続けているわけですね。
ところが、その困難に耐えられなくて一気に解決を求める気の短い人もいるんですねえ。それで、私が不可解なのは、困難の解決のために「なんらかの意思」を持ち出したら、その「意思」は如何にしてできたのかというさらに困難な問題に行き当たります。困難の解決ではなく、困難の複雑化に過ぎないわけです。少なくとも「デザイナー」も科学の対象だとすると、そういうことになるので不可解千万。
ただし、「デザイナー」は科学の対象ではなく、詮索することは「不敬」なことだとして思考停止すれば、困難は生じません。だとすれば、不可解ではありません。ああ「宗教」なのねってことで。
心の平安を求めるのか、困難に立ち向かうのか?科学は困難が多くて、つらいよ。
279. 普通の電気設計者 — January 3, 2009 @23:06:32
「人間の基本仕様」と言うのに何だか納得します。「判らない」とか「不安」な状態では、それが気になってしまい、通常の処理がスムーズに出来ない事が多々あります。
そんな際に、心理学で言う合理化機制を行って、都合よく解釈してしまう、それの科学版が擬似科学なのですね。
何だかすごくすっきりしました。
それでも、擬似科学論の言葉選びのセンスと、よく構想した疑似科学論はSF小説を読む際の土台としては重宝しております。
(1)現実の世界で「わからない」ことを手っ取り早く解釈する手段
(2)フィクションの世界を構成する創作
これらは分けて考えるべきです。
上記の (1) のうち、科学っぽい装いをしていたり、しばしば科学と誤解されるけど科学じゃないものを、ここでは「疑似科学」ではなく「ニセ科学」と呼んで、中でも特に不都合なものを批判しているようです。石田は、そういう物は批判すべきだと考えています。
上記の (2) はフィクションですので、それが現実と混同されない限り、ニセ科学として批判する必要は無いと、石田は考えています。ここでは、これは主に「疑似科学」と呼んでいるようです。
ただし、そういうものでも「ニセ科学」とは関係無い理由で、批判すべき場合はあるかもしれません。
「ニセ科学」と「疑似科学」の呼称については、一般的な定義が共有されているわけでないので、各々好きな言葉を使えば良いでしょう。「疑似科学」が SF においてほめ言葉として使いうるのに対し、「ニセ科学」は言われるとちょっとイヤーな感じがするところが、使い分けのポイントだと、石田は理解しています。
このコメントの内容は、ほぼ きくちさん の受け売りですが、石田が何か誤解してるために、 きくちさん が同意し得ない内容を含んでいる可能性は、おおいにあります。念のため。
281. g.a — January 4, 2009 @17:55:38
そんなことで、信仰を持ってると言えるのか!・・・言ってないのかな?
言ってないのなら、自分をごまかすのはキリスト教としてどうよ?
なんででしょうね。
283. 技術開発者 — January 5, 2009 @09:11:42
>科学の振りをして箔付けになるという感覚が、宗教の価値を落としてる様な気がする。
その通りだと思うんですね。私は一面で理神論者ですから創造主というのを認めるんですね。ただ、その創造主は「自然法則を今のように定めることて宇宙を生み、生命を生み、生命に進化をさせ、理性を生み出した存在」なんです。こういう考え方に立つと、自然法則を理解しようとする自然科学と創造主は何一つ対立しないんです。なんていうかな、例えば古代の仏像をひたすら研究して、「仏師はこういうノミを用いて、こういう材木を彫ってこの仏像を作ったんだな」と理解しても、その仏師が「どういう気持ちで仏像を作ったか」の考察にはなんら影響を与えないでしょ。
以前、そんな話を書いたと思うけど、「宇宙ができ、物質が生まれ、やがて生命が誕生し、生命が進化する」様に自然法則を定めた創造主というのを想像すると、それはまさに「人知を越えた」能力を持っている訳です。そういう偉大さを嫌う人たちが、「いやそんなことはない、創造主はいろいろとちょっかいを出したに違いない」なんて偉大さにケチをつけているだけに思えたりする訳ですね(笑)。
284. トンデモブラウ — January 5, 2009 @09:59:00
広く頒布されている啓蒙書に、ある意味”具体的に”できあがる様子が描かれているからでしょうね。
そのまま読み進めていくと、自家撞着してしまうのに・・・原文では違うのか?
原理主義者って原著にあたったりするのでしょうか?
ある日のこと。真理を探して旅を続ける愚者は、後ろを振り向きながら友人に言いました。
「君が思い悩むのは、おそらく学習不足が原因だろうね。安易に近道を選ぶから、悩んでしまうんだよ。」
「我々が近道を選ぶと、どうなるのか?おそらく、『自然淘汰だけでは、納得できない。きっとどこかに、見えないデザイナーが居るんだ。』となるか、あるいは、『以前通った北海道で、バイクを操る武者ライダーが居ました。』と、なるだろうな。そういえばあれも、スパモンさまが先導していたのか?」
己の持論を言い尽くした愚者は満足しましたが、やっぱり崖に落ちそうになりました。
細い木の根にしがみ付き、必死の愚者の姿を確認した友人は、天を仰いで言いました。
「これは僕の責任だ!なぜ僕は、歩きながら大事な友に質問してしまったのだろうか?この上は、大いに反省し、その原因を突き止めべく考えてみよう。」
『深く反省できる人は安易な答えにしがみ付かないものです』