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2010/05/21 口蹄疫に便乗する人たち

カテゴリー: ニセ科学

比嘉照夫先生が口蹄疫騒ぎに便乗してEMの宣伝をしておられるようです。

ひどすぎますよ。これは最低です

http://dndi.jp/19-higa/higa_27.php

また

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164164775#CID1274423464

で教えていただいたのはホメオパシーで、これもひどいのですが、善意の誤解ではあるのでしょうねえ


2010/05/21 SFオンラインのブックレビュー2

カテゴリー: 日 記

今は亡き「SFオンライン」掲載のブックレビューから、「SFとその周辺」という謎のくくりで14冊拾ってみました。小説とSF関連ノンフィクションが混じっています。ディックも二冊。

●HAL伝説 【1997/8】

●カオスの紡ぐ夢の中で  金子邦彦【1998/1】

●ライズ民間警察機構【1998/3】

●「神」に迫るサイエンス ―BRAIN VALLEY研究序説―【1998/4】

●ヴァスラフ【1998/10】

●垂直世界の戦士【1998/11】

●スタートレック科学読本【1999/5】

●欲望の未来【1999/7】

●スプートニク【1999/7】

●ロボットにつけるクスリ―誤解だらけのコンピュータサイエンス【2000/3】

●われ思うゆえに思考実験あり【2000/4】

●新世紀未来科学【2001/3】

●フィリップ・K・ディック 我が生涯の弁明【2001/7】

●未来のアトム【2001/7】

●HAL伝説 【1997/8】

デイヴィッド・G・ストーク編

日暮雅通・監訳

(早川書房)

 つい先日Wired誌の特集を読むまで気がつかなかったのだけど、今年は、SF界でもっとも有名な人工知能であるHAL9000が誕生した年だったらしい。人工知能?そう、実際、HALは単なるコンピュータではない。人間との会話もそつなくこなし、読唇もすれば、計略もめぐらせられるのだから、人間並みかあるいはそれ以上の知能を持っていると考えられる。“2001年”が制作された30年前の時点(おやおや、もう30年も経ったのか)では、今世紀末までに人間と同等の知能をもった機械が作られるという予測がそれなりの信憑性をもっていたのだ。たしかに、かつて人工知能の未来は薔薇色だったのだけど、どうやらそれは楽観的すぎたようだ。HAL誕生の年を迎えても、結局僕たちは真に人工知能と呼びうるものを持つにはいたっていない。では、現実のコンピュータはHALにどこまで近づいたのだろうか。本書はその問題をコンピュータと人工知能の専門家たちが、さまざまな観点から論じたものだ。

 本書は“2001年”についての本ではなく、あくまでも人工知能についての本なのだが、話題はあくまでも“2001年”に即して選ばれている。たとえば、映画の中に、HALがフランク・プールとのチェスにあっさり勝ってしまうシーンがある。そのシーンをもとに、コンピュータ・チェスの現在についての議論が展開される。執筆者は、チェスのグランドマスター、カスパロフを破ったIBMのコンピュータ、ディープ・ブルーの設計者当人だ。なかなかタイムリーな選択ではないか。かつて、人工知能研究者にとって、チェスで人間に勝てることはとりもなおさず人間並みの知能を意味していたので、このシーンはHALの知能程度を示すものと理解できたかもしれない。ところが、現実にグランドマスターを破ったディープ・ブルーは、設計者自身も認めている通り、知能と呼べるものを持ち合わせてはいなかった。現代のチェス・プログラムは知能をまねた推論によってゲームする道を完全に放棄し、計算機の能力にものを言わせて、可能な手を総当たり的に調べる方法を採用しているからだ。チェスが強くても賢いとは限らない、というわけだが、この点はかつての研究者が見過ごしていた問題として、本書中のさまざまな部分でくり返し指摘されている。

 もうひとつ、本書中で何度も論じられているのが、会話を成立させるのに必要な経験あるいは常識の問題だ。HALのように人間の言葉を理解し、口の動きから会話を読み取り、話す能力を持つ機械は、ただ単語を知っているだけではなく文脈を理解することが要求される。ところが、文脈の理解には生活や経験の積み重ねにもとづく常識を知らなくてはならない。生まれたばかりの人工知能に単語を教えることはできるとしても、経験や常識をどうやって教えればいいのか。どうやら、HALはその難関を突破して作られたもののようなのだが。

 取り上げられている話題はほかにもフォールト・トレラント・コンピュータ、音声合成、音声認識、会話能力、読唇、チェス、計画立案、感情、あるいは人工知能の倫理問題などなど、実に多岐にわたっている。人工知能の現在を概観するにはなかなかよい本かもしれない。といっても、実のところ、本書ではタイトルから想像される以上に専門的な議論が展開されているので、ある程度の予備知識がないと読み通すのは少々骨だろう。僕自身は大御所マービン・ミンスキーと天才スティーブン・ウォルフラムへのインタビューが面白かったのだけど、これも噛み砕いた用語解説が欲しかった。

(菊池誠)

●カオスの紡ぐ夢の中で  金子邦彦【1998/1】

(小学館文庫)

 瀬名秀明の新作「Brain Valley」は複雑系SFだった。いや、むろん複雑系SFならクライトンの「ロストワールド」という前例があるのだけど、「Brain Valley」は、小説内で繰り広げられるディスカッションが、ほとんど小説として破綻する寸前とも言えるほどの濃さで、びっくりだ。どちらかというとジャンルSFファンよりも広範な読者層を狙ったであろうこれらの小説で、複雑系がテーマに選ばれたというのは、いかに「複雑系」が現代科学のキーワードとして世間に浸透しているかを示すものと言っていいだろう。実際、書店には「複雑系」についての解説書が掃いて捨てるほど並んでいるし、ビジネス書のタイトルに使われてるくらいだから、「複雑系」は立派な流行語だ。

 ブームにもなると逆に叩かれるのも世の常で、複雑系嫌いを広言する人もまた多い。だけど、待ってほしい。あなたが嫌いなのは本当の「複雑系の科学」だろうか。世間に溢れる軽薄な解説書に書かれた“複雑系の虚像”ではないのだろうか。本の数が多ければそれだけ屑も多いのは当然で、誤解だらけのものやトンデモ本のたぐいも数限りなくある。「複雑系」とニューエイジの区別もついてないような著者が、シェルドレイクだの「百匹目の猿」だのという言葉と「複雑系」を並べるのを見ると、本当にげんなりしてしまう。もっとも、これには同情の余地もなくはない。クリス・ラングトンがハンググライダーの事故で瀕死の重傷を負って、啓示のように人工生命のアイデアを得た、なんていう伝説(まあ事実だろうけど)を割にまともな解説書ですら嬉々として書いているのだから、それを読んでニューエイジと区別がつけられない人がでてきてもしかたないのかもしれない。ちょっとは真面目な本でも、カオスはニュートン以来の科学概念を覆す、とかいうセンセーショナルな書きっぷりに嫌気がさした人は多いかと思う。ニュートンの法則に基づいてもカオスは発生するわけで、そりゃあちょっと誇大広告なのだけど。

 それとは別に、複雑系の本を読めば読むほどつのる不満がある。一般向け解説書のレベルでは、「複雑系」といえばサンタフェ研究所、という安直な図式から抜けられないものが殆どだからだ。たしかにサンタフェは「複雑系」研究のひとつの中心には違いない。その重要性は否定しない。だけど、日本にも優れた「複雑系」研究者はいるし、優れた業績も挙げている。それもサンタフェ的なものとは一味違う、日本流の複雑系研究なのだ。サンタフェ的な複雑系よりも「真面目な」研究、というと語弊があるだろうか。いずれにせよ、日本独自の研究をもう少しまともに取り上げても罰は当たらないんじゃないか、とここで声を大にして言っておきたい。

 と、ここまでが枕だったりする。さて、本書の著者である金子さんは日本の複雑系研究を引っ張ってきた研究者のひとりだ。そのうえ、筋金入りの荻野目洋子ファンで、SFも読んでる。複雑系ブームに乗って軽薄な発言をする学者もいないわけではない中で、信頼に足る人の筆頭と言えるだろう。本書は、その金子さんが雑誌に連載していた科学エッセイをまとめたものだ。むろん、雑誌連載だから、肩の凝らない軽い文章ばかりなのだけど、書くべきことはちゃんと書いている。科学ジャーナリズムへの注文も複雑系ブームへの批判もある。科学行政への意見や科学者論もある。荻野目洋子も出てくる。小松左京の「継ぐのは誰か」が人工生命研究を予言していたというくだりなど、SFファンがにやりとする部分も多い。そして、なぜ複雑系を研究するのか、複雑系をどう捉えようとしているのか、そんな話ももちろん書かれている。サンタフェ流の複雑系にうんざりした向きも、そうでない向きも、ここはひとつ軽いエッセイで複雑系研究者の本音を読んでみてはいかがだろう。

 しかし、実は本書の特色はそこにはないのだった。本書の後ろ半分を占めるのは、なんと「進物史観」題されたSF小説(!)だ。人工進化と絶滅がテーマの「複雑系SF」なのだけど、90年までには書き上げていたというから、実に先駆的な作品だったわけだ。実際、アイデアの一部は「ロストワールド」に先駆けるものになっている。といっても、絶滅するのは恐竜じゃないんだけどね(何が絶滅するのかは、読んでのお楽しみ)。アイデアが生のまま出過ぎていて、純粋に小説としては難があるものの、なんといっても研究者自身が書いた複雑系SFなので、心あるSFファンには一読をお薦めしておく。

 さて、小説もいいけどもうちょっと研究の中身に触れてみたい、という人はどうしたらいいのだろうか。日本の複雑系研究のマニフェストとも言うべき「複雑系のカオス的シナリオ」(金子・津田、朝倉書店)という本があるのだが、たぶん大学院レベルの専門書なので、ちょっと敷居が高いかもしれない。やはりここはひとつ、日本の科学ジャーナリストにきちんと日本の研究を紹介してもらいたいなあ、と最初の話に戻るのだった。(菊池誠)

●ライズ民間警察機構

【1998/3】

フィリップ・K・ディック

森下弓子訳

(東京創元社 創元SF文庫)

 とりあえず断言しておくけど、これは傑作などではない。どちらかといえば、駄作の部類だろう。少なくとも普通の基準では。そもそも、ディックというのは駄作の多い作家である。しかも、傑作は訳され尽くしているので、もはや“本邦初訳”と銘打たれていれば、それはすなわち駄作なのである。もっとも、この「ライズ民間警察機構」はそう銘打たれているわけでもなければ、本当の意味での未訳作品だったわけではないのだけど。これは、かつてサンリオSF文庫から出版されていた「テレポートされざる者」の異本なのである。

 21世紀初頭、テレポーテーション装置“テルポー”の発明によって、人類はフォマルハウト第9惑星“鯨の口”へ移民を送り出していた。ところが、このテレポーテーション装置は地球から“鯨の口”への一方通行で、いったん移民してしまえば、地球へ戻ることはできないのだという。地球に届くのは、植民地の素晴らしさを伝える“鯨の口”からの超光速通信だけ。そこに陰謀を嗅ぎ取った主人公は、巨大情報組織“ライズ”の支援を受けて、恒星間宇宙船で“鯨の口”を目指す。とまあ、そういうあらすじなのだが、自分で書いていても、そんな話だという気がしない。

 結局、宇宙船ではなくテレポーテーションによって“鯨の口”に到着した主人公は、LSDを打たれてしまい、以後、現実と幻覚が入り混じった悪夢の世界となる。そこからが、ディックなのだ。ドラッグ、揺れ動く現実、未来を記した本、シミュラクラ、軍事国家の恐怖とそれへの抵抗、など、他の作品でもおなじみの要素がふんだんに盛り込まれた、まごうかたなきディックの世界が展開する。ついでにいうと、張りっぱなしでどこかに行ってしまう伏線、つじつまの合わない展開、説明されない登場人物、とディックの失敗作にありがちな要素もまた、ふんだんに盛り込まれている。

 実は本書は、ディックの作品の中でも際立って複雑な来歴をもつ作品で、展開がむちゃくちゃになってしまったのもしょうがないとも思えるのだが、ありがたいことにそのあたりの事情については牧眞司氏の詳細な解説がつけられている(せっかくの解説なのに、写真2と3が入れ替わっていて残念)。大雑把に言うと、サンリオ版との違いは、前半部にかなり手がはいっていること、後半部の順序が入れ替わっていること、さらに原稿紛失による欠落部分がジョン・スラデックの筆によって補われていることである。もっとも、サンリオ版“テレポートされざるもの”はもはや入手できないし、だいたいあれは翻訳がひどかったから、マニア以外は探してまで読むようなものではない。そういう意味では、来歴を気にせずに独立した作品として読めばいいのだろう。

 ちなみに、紛失したと思われていた原稿は、"Lies, Inc."の原書公刊後に遺品の中から(なんと「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」の原稿の束から)発見されている。この創元版には、PKDSニューズレターに掲載されたその紛失原稿の翻訳も、付録としてつけられていて、これは本当に嬉しい。しかし、これ、スラデックによる補筆分と差し替えて本文中に埋めこめなかったんだろうか。そうすれば、世界ではじめての本当の完全版になったのに。その点、ちょっと惜しい。ファンなら、自分で切り貼りして、完全版を作ってみるのも一興かもしれない(じゃあ、2冊買わなきゃ)。

 さて、最初に書いたとおり、なにをどう取り繕ったところで、これは傑作ではない。中途半端に改稿された失敗作だ。よほどのファン以外には薦められるものではない。たとえば、ディックを初めて読むという人にこれを勧めるなど、犯罪的とすら言えるだろう。これ読んで、ディック嫌いになられても困る。傑作をいくつも遺した作家なのだから、まずは傑作から読むべきだ。一方、既にディックにはまっちゃった人は、どうせどんな駄作だって読むにきまってる(よね)。そして、そういうフィルディッキアンの期待には充分に応えてくれる作品である。そう、どこをどう切っても、ディックなのだから。で、僕はというと、本当に楽しんで読んだのだ。いったんはまると、駄作は駄作なりに読めてしまうのが、この作家の不思議なところである。つじつまの合わなさが快感になるようじゃ、まずいかとも思うんだけど、いや、ほんと、好きなもんはしょうがない。すまん。(菊池誠)

●「神」に迫るサイエンス

―BRAIN VALLEY研究序説―

【1998/4】

瀬名秀明監修

(角川書店)

『BRAINVALLEY』という小説を読んで、まず驚かされたのは、過剰とすら言えるほどに盛り込まれた科学解説だった。それはほとんど小説としての結構を壊してしまうくらいで、とにかくそこらのハードSFではとても太刀打ちできないほど「科学的」で難しい小説だったものだから、僕なぞは、これでは途中放棄の読者が多いのではないか、といらない心配してしまった。ところが、角川が運営する公式ウェブサイト上での読者の書き込みなどを読んでみると、専門用語が苦にならないどころか、その難しさをむしろ楽しんでいる読者が多いことがわかって驚かされる。いっそ徹底した「科学小説」なら、むしろ需要があるということなのだろうか。ハードSFの人達は、いろいろ考えたほうがいいかもしれない。読んだら賢くなった気がする(冗談抜きで、本当に多くの知識が得られる)というのは、小説の付加価値としていいのかもしれない。

 さて、この『「神」に迫るサイエンス』は、それでなくても科学解説に溢れた『BRAINVALLEY』をネタに、更なる科学解説をしてしまおう、という本だ。ただし、今度は瀬名氏が監修者となって、各分野の専門家が筆を執るというもの。なかなか面白い企画だと思う。SFに材をとった科学解説書というと、僕がとっさに思い出せるのは、以前とりあげた『恐竜の再生法教えます』(これは本書のまえがきでも言及されている)くらい。『SFはどこまで実現するか』(ロバート・L・フォワード、ブルーバックス)というのもあるけど、特定の作品をとりあげているというわけじゃないか。対応するSFがあるという意味では、ルーディ・ラッカーの数学書を挙げてもいいかもしれない。少々強引か。この手の企画をほかの本で考えてみる手はありそうだ。

 本書では、人工生命を佐倉統氏が、UFO研究を志水一夫氏が、とそれぞれの分野に適任の著者をあてている。脳科学や霊長類学など、分野的にもホットなものが選ばれているので、一冊でいろいろ読めるという意味からも、なかなかお得な本かと思う。瀬名氏本人の手になるのが「臨死体験」の章だというあたり、意外性も充分。ただ、本の性格上、広い視野でレビュー的に書くことが求められるので、あまりにも著者個人の研究に偏った記事は面白くない。そういう意味では「脳型コンピュータ」の章は人選ミスだったのじゃないだろうか。

 ところで、先月佐倉氏の本をとりあげたときにも書いたのだけど、ことフィクションに関する限り、「科学的な正しさ」の判断基準は個々の書き手・個々の読者によってかなり違ってしまうのだ。本書の「まえがき」を読んで、それを再認識させられた。あたりまえといえばあたりまえだけど、なかなか難しい問題ではあるよね。(菊池誠)

●ヴァスラフ

【1998/10】

高野史緒

(中央公論社)

 時は今世紀初頭、ロシア帝国コンピュータ・ネットワーク管理省は完璧なるヴァーチャル・リアリティ・キャラクターであるヴァスラフを誕生させた。サイバー・スペースに開かれた劇場でヴァスラフの踊るバレエはセンセーションを捲き起こす。

 架空の歴史を描き続ける高野史緒だが、今回は同じ架空の歴史でも少々毛色が違う。巻頭の年譜や事典の記述を参照するとわかるように、ここでは、架空の歴史の中で伝説のバレエ・ダンサー、ニジンスキーの生涯(の一時期)を再解釈しようと試みているのだ。無論問題になるのは、ダンサーとして絶頂だったニジンスキーではなく、彼が精神に異常をきたす過程の解釈ということになろう。

 では、高野史緒はニジンスキーをどう解釈したのか。ヴァスラフは“魂をもたない”ヴァーチャル・リアリティとして登場する。なぜ、魂をもたないのか。そして、年譜と比較するなら、ヴァスラフが魂を得たときこそ、実在のニジンスキーが精神を病みはじめたときなのではないか。これはなにを意味するのか。要所要所でピンク・フロイド“ザ・ウォール”の歌詞が引用されるのはなぜか。

 アルバム“ザ・ウォール”は人と人との間に立ちはだかる壁、ミュージシャンと観客の間に立ちはだかる壁を絶望的に歌ったロック・オペラだ。作者のロジャー・ウォーターズ自身がその壁を痛切に感じ、“ザ・ウォール”とその続編である“ファイナル・カット”を制作後、グループを抜けることとなる。いや、そもそもピンク・フロイドというグループ自体が、狂気に蝕まれてグループを去ったシド・バレットの幻影を引きずらざるを得ないバンドだった。シドの影を払拭しえたのは、ロジャー・ウォーターズが脱退して、世界最大のエンターテインメント・バンドとして再生してからなのだった。ちなみに(当然というべきか)、巻頭と巻末で引用されている歌詞は、それぞれ“ザ・ウォール”でも最初と最後に置かれているもの。

 といろいろ書いたあとだけど、白状すると、僕はニジンスキーについて特に詳しいわけじゃない。豆知識程度の知識があるだけだ。有吉京子の“ニジンスキー寓話”も読んでないし。居直るわけじゃないが、それでも、この“ヴァスラフ”は充分に面白かった。いや、それは当然で、高野史緒はいつだって(といっても4冊だけか)、予備知識なしでも面白く、予備知識があれば更に面白いという小説を書くのだった。今回は一見戯曲のような形式を採用しているものの、読めばわかるように全く戯曲ではない。この形式も周到に計画された仕掛けのひとつなのだ。これまで完全に“作り物の世界”を描いてきた高野史緒だが、ニジンスキーという実在の人物をモデルにするにあたっては、単にサイバーパンク的な意匠を凝らしただけでは“作り物度”が不足だったのかもしれない。さらなる“作り物度”のためにこの形式を選んだと思っても穿ちすぎってことはないだろう。僕は“頭で書く”タイプの小説が基本的に好きなので、こういうのは好き。今月のマスト・アイテムでしょう。あ、たぶん、今月はマスト・アイテムがたくさんあると思うけど。(菊池誠)

●垂直世界の戦士

【1998/11】

K・W・ジーター

冬川亘訳

(早川書房 ハヤカワ文庫SF)

 巨大建造物というのはSFではそれなりに人気のあるアイテムで、試しにインターネットの検索エンジンでSFとmegastructureをキーワードに検索してみるとそれ専門のページが見つかったりする。一番有名なmegastructureといえば、解説でも引き合いに出されているリングワールドということになるだろうか。ほかにもボブ・ショウのOrbitsvilleはダイソン球が舞台だし、「楽園の泉」や「レッド・マーズ」に登場する宇宙エレベーター(軌道エレベーター)やクラークのラーマなんかも巨大建造物の仲間にいれてよさそうだ。そういう意味ではスペースコロニーってのは典型的なmegastructureなのかな。それとは全然スケールが違って、笑っちゃうくらい大きなものとしては、バクスターのリングなんてのもあったっけね。とにかくこういうのは、大きいこと自体がセンス・オブ・ワンダーを生むので、大きいものをいかに大きいと思わせるかが作者の腕の見せどころ。

 で、ジーターだ。ここではどれほどの大きさともしれない巨大なシリンダーがそびえたち、その垂直に切り立った表面が物語の舞台。シリンダーの内部にはちゃんと水平な床をもった世界があるから、要するに巨大な円筒型ビルの側面だね。こういう巨大ビルの出てくるSFもいろいろあったとは思うのだけど、今思い出せるのはシルヴァーバーグの「内側の世界」くらいか。もっとも、ジーターのシリンダーは下のほうが雲に隠れて見えないので、実のところどのくらい高いのかよくわからないし、そもそもこれがどこに立っているのかも明らかにされていないという由来不明の謎のビルなのだ。

 主人公ナイは、水平な世界に見切りをつけて、わざわざ好き好んで外側の垂直世界に出てくるくらいだからある種のアウトローで、そこはいかにもジーターらしい。そのナイがシリンダー世界全体を揺るがすことになる陰謀にまきこまれるというのが、平たく言っちゃうとこの物語ということになる。道具だては大がかりだし、いかにもジーターらしい底意地の悪さもある程度は出ていて悪くはないのだけど、どうも中途半端な印象を受けてしまうのは、解説にもあるとおり、本来もっと長くなるはずだった話を無理やり終わらせちゃったせいなのか。あるいは、原書が書かれたのが10年近く前で、「ブレードランナー2、3」ほどには意地悪さに磨きがかかっていないせいなのか。シリンダーの巨大さが伝えきれていないのも残念。巨大さに圧倒させてくれたならそれだけでもよかったのだけどね。

 ところで、内容はともかくとして、この表紙のひどさはなんとかならなかったのだろうか。こんな絵をつけるくらいなら、いっそ字だけにしといたほうがなんぼもましだったんじゃないか。ジーターという作家を知らずにこの表紙だけを見せられたら、とても買う気にはならないよね。だいたい中身の雰囲気とぜんぜん違ってるし。(菊池誠)

●スタートレック科学読本

【1999/5】

【著者】アシーナ・アンドレアディス

【訳者】野村政夫訳

【版元】徳間書店

 ホンダの自立2足歩行ロボット開発担当者は、上司から“鉄腕アトムを作ってみないか”と言われたのだとか。ホンダのP2やP3は、いわば、アトムの予言が“自己実現”したものと言えるだろう。その意味では、ホンダのロボットに昨年の星雲賞を与えたのはとても正しい。このホンダの例ほどストレートなものは珍しいとしても、日本の科学・技術分野に“鉄腕アトム”が与えた影響は実に大きい。一方、アメリカの科学・技術への影響力でそれに匹敵するものといえば、なんといってもスタートレックだ。JPLの研究室なんかにエンタープライズの模型が置いてあったり、スタトレのポスターが貼ってあったり、という情景にはテレビ番組で幾度となくお目にかかっていることと思う。そう、たとえばスターウォーズを科学の文脈で語ってもあまり意味がないのに対して、スタートレックは科学者の立場で論じてもおかしくない程度には科学的な物語なのだ。

 さて、そこで本書。初めに注意しておくが、この邦題“科学読本”はいささか誇大広告気味だ。原題はTo Seek Out New Life、そして副題がThe biology of Star Trekなのだから。つまり、あくまでも主題は生物科学なのだ。この副題を見て、もしかしたらお気づきのかたもいるかもしれない。そう、まったく同じ副題を持つLife Signsという本が、『スタートレック生物学序説』(スーザン・ジェンキンズ、ロバート・ジェンキンズ著、平野裕二訳、同文書院)という題で昨年末に邦訳されたばかりではないか。しかも、どちらも原書は98年刊行。ちょうどそういうタイミングなのだろうか。ともかく、物理学や天文学ではなく(スタートレックの物理については別の本が出ている)、生物科学に的を絞った本が続けざまに2冊刊行されるのも、異星の知性体が次々に登場するスタートレックという物語ならではということだろう。

 もっとも、いかにスタートレック全シリーズ合わせて500ものエピソードがあるとはいえ、生物学者の興味を特に強く惹くエピソードはある程度限られてしまうようで、選ばれた話題には両書共通のものが多い。全エピソード数を考えれば、殆ど同じと言い切ってもいいかもしれない。目に付く話題を列挙するとこんな感じ。珪素生命体、異種生命体同士の恋愛、ホロデッキ、エネルギー生命体、シェープシフター、トリル人の共生、不死と若返り、意識の乗っ取り、ウィルス、クローン・・・。さすがに生物科学という共通のテーマで2冊の本を作ってしまうと、内容が重なってしまうのもしょうがないということか。一番の違いは、“読本”が社会学にも少々踏み込んでいるという点だろうか。特に“艦隊の誓い”の分析はトレッキーには興味深いかもしれない。むろん、そのほかにも、珪素生命体の可能性について“読本”の著者は否定的なのに対し、“序説”の著者は少々曖昧な態度をとっているという程度の違いはある。

 日本では、ともすると作品への思い入れもなにもない人達の手になる安易な謎本が作られがちだけれど、作品自体への愛がなければ面白い本になるわけがない。まして、スタートレックのように熱狂的なファンが大勢ついているような作品となれば、書く側にもそれなりの思い入れが要求されるはずだ。その点、“読本”“序説”ともに著者がトレッキーを自認しているだけに安心できる。生物科学の入門書としては、どちらもなかなか面白い本だ。スタートレックのファンなら読んで損はない。ただし、2冊とも買って読み比べるほどの価値があるかと言われれば、少々首をかしげてしまう。どちらが優れているというわけでもなさそうなので、書店ではじめに目についたほうを買えば充分かもしれない。もちろん、スタートレックを知らなくてもそれなりに楽しめるので、ファンでなくても大丈夫。もっとも、生物科学のよい入門書はほかにもたくさんあるわけで、“読本”にしろ“序説”にしろ、多くの本の中から敢えて選ぶほど抜きんでた本でもない。やはり、基本的にはファンのための本だろう。

 最後に、例によって翻訳にひとこと苦言を。『科学読本』の訳者は医学博士で、かつまた筋金入りのトレッキーらしいので、訳者として適任ではあるのだろう。ただし、スタートレック用語と専門用語以外の固有名詞については、気になる表記がずいぶん目についた。たとえば、慣用ではルイセンコあるいはルィセンコと表記される人物をあえてリセンコと表記してあるのだけれど(英語の発音は確かにリセンコ)、注釈をつけないと一般読者が悩むのではないだろうか。邦訳のある本でかなりポピュラーなもの(たとえば、セーガンの『科学と悪霊を語る』)がいくつか原題表記のままになっているのもいただけない。ちょっと調べればわかることなのに、その手間を惜しんでは、全体の信頼度まで疑われて損だろう。余談ながら、『オスカー・ワイルドの映画“Dorian Gray”』などという文は、どうにも原文が気になって悩ましい。(菊池誠)

●欲望の未来

【1999/7】

【著者】永瀬唯

【版元】水声社

 永瀬唯の評論は面白い。視点の面白さ、切り口の鋭さというのは確かにある。しかし、それよりも、永瀬唯の本領が発揮されるのは、とにかく綿密な調査に基づいて語るときだ。いわば調査の鬼なのだけれど、その調査自体の楽しさが伝わってくるのがいい。もっとも、彼は特に変わった情報源を持っているわけではない。書店や国会図書館、それにインターネットといった誰にでも手の届く情報を使うだけだ。ひとつには、そういった情報源の使い方を本当に知っているかどうか。もうひとつには、足をのばせる範囲なら実際にでかけてみるというフットワークの軽さ。要はそういうことなのだろう。以前、GATACONで「ぎぼぎぼ90分」という永瀬唯の企画を見たことがある。まさに調査だけで成り立っているような企画で、これがまた抜群に面白いのだった。

 本書はその永瀬の技術論(というか技術史)とSF論をまとめたもの。それぞれは独立したエッセイで、『肉体のヌートピア』に比べると小品集という趣ではあるけれど、どれも読ませる。全体としては、ポストサイバーパンク時代を見据えた文化論でもいうところ。

 調査の面白さは、特に永瀬の得意技ともいうべき”歴史もの”、たとえば心霊写真の歴史や絶叫マシンの歴史を論じたエッセイによくあらわれている。しかし、なんといっても圧倒的なのは、久生十蘭の『魔都』にみられる矛盾を東京都の上水道・下水道の歴史に基づいて読み解く試み(敢えて”誤読”と呼んでいるが)だ。身も蓋もない言い方をすれば、なんか変だったので調べた、というだけのことなのかもしれないけれど、なぜか辻褄があってしまう不思議。しかも、最後にはきちんと作品論になってしまうのだから、見事な力業というほかはない。

 一方、「エイリアン」「パトレイバー」「ナウシカ」「もののけ姫」といった個々の作品を論じたエッセイでは、切り口の鋭さが光る。なぜ劇場版「パトレイバー」第一作が傑作で、第二作と「攻殻機動隊」はだめなのか。マンガ版「ナウシカ」に見られる作者の姿勢のぶれの意味をどう解釈するのか。いや、こういった作品論もまた、作品のディテールをきちんと調査するところからはじまっているようなのだ。

 本書は最後に「もののけ姫」を失敗作であると断じて終わる。むろん、永瀬唯のことだから、単なる印象批評のレベル

で言っているわけではない。現代的な意味を持つのは「もののけ姫」よりも劇場版「エヴァンゲリオン」であるという指摘はもっともなものには違いない。僕自身は、たしかに「もののけ姫」を大傑作とは思わないにしても、「ナウシカ」の再話としてはやはり現代的意味をもつものだったという気がしているのだけど。

 とにかく、永瀬唯の面白さを堪能できる一冊。(菊池誠)

●スプートニク

【1999/7】

【著者】スプートニク協会+ジョアン・フォンクベルタ

【訳者】管啓次郎訳

【版元】筑摩書房

 まさに驚くべき話ではないか。1968年に打ち上げられたソユーズ二号には、イワン・イストチニコフ大佐なる宇宙飛行士と一匹の犬が乗り込んでおり、地球軌道を周回中に行方不明となったというのだ。

 僕たちはガガーリンやチトフ、あるいはテレシコワといったソ連宇宙計画初期の宇宙飛行士の物語をよく知っている。ソユーズ1号のコマロフ飛行士が帰還時の事故で死亡したことも。しかし、イワン・イストチニコフとは、耳慣れない名前ではないか。いや、そもそも、ソユーズ2号というところからして驚きなのだ。なにしろ、これは公式には無人機であったとされているのだから。

 たしかにソ連には行方不明になった宇宙飛行士の噂が絶えなかった。事故の事実自体が西側に漏れないように隠蔽されたのだといわれれば、もっともらしい話だと思える。鉄のカーテンから垣間見ることしかできなかった時代のソ連宇宙開発史に、このような隠された物語が本当にあったのだとしても、不思議ではないのかもしれない。しかしそれはあくまでも冷戦時代の噂にすぎない、はずだった。ところが、ここにイワン・イストチニコフという名前が登場する。

 では、闇に葬られたはずのイストチニコフ事件が、なぜ今になってあかるみに出たのか。日本版のために書かれたスプートニク協会会長の序文から、その事情は読み取れる。グラスノスチとペレストロイカである。ソ連の宇宙開発にまつわる品物がサザビーズのオークションにかけられ、その中に含まれていた一枚の写真にイワン・イストチニコフというサインがあったというのだ。そこから調査がはじまる。

 本書にはイストチニコフの姿を収めた多くの写真やイストチニコフとともに宇宙へ飛び立ち同じく行方不明となった犬のクローカの写真が掲載されている。なるほど、これらの写真から僕たちは、イワン・イストチニコフなる宇宙飛行士の生涯に思いを馳せることができる。

 残された資料とされるものは多い。宇宙空間での暇をまぎらわすために、地上との間でたたかわされたチェスの棋譜。あるいはまた、イストチニコフが船内で書き付けたとされるノートに残された悪夢の記述。そこには実に印象的な言葉が書かれている。その言葉は僕たちの記憶を刺激する。既視感にも似たそれは、忘れ去られた宇宙飛行士を悼む気持の表れなのか、それとも。

 序文の最後に著者フォンクベルタが”想像力に挑戦し、現実とフィクションのあいだの葛藤を考え直すことを人に要求する”と述べている通り、イスチトニコフの物語は僕たちの想像力をぎりぎりまで刺激する。帯に打たれた”超ノンフィクション”という言葉の真の意味も今ならわかる。敢えて言おう。これは文字どおり最後の一ページまで目が離せない本だ。

 それにしても、こうして多くの写真に姿を見せているイワン・イスチトニコフとは結局何者だったのだろうか。書物丸々一冊分の言葉を尽くしてなお、僕たちは遂に解かれない謎とともに残される。まずは読むべし。(菊池誠)

●ロボットにつけるクスリ―誤解だらけのコンピュータサイエンス

【2000/3】

【著者】星野力

【版元】アスキー

 星野氏の『誰がどうやってコンピュータを創ったか』(共立出版、1995)は実におもしろいコンピュータ史の本だった。著者の個人的見解を強く打ち出したものだけに、その点では異論もあろうけれど、それはそれとして、原資料に徹底的にこだわったその姿勢は誰もが高く評価するところだろう。コンピュータの歴史に興味があるなら一度は読むべき本としてお薦めしておきたい。一方、同じ著者の人工生命関連書については、申し訳ないけれど、あまりぴんとこなかった記憶がある。コンピュータ史でのようなグローバルな視点に欠ける気がしたせいかもしれない。

 さて、本書には“誤解だらけのコンピュータサイエンス”という副題がつけられている。とはいっても、なにせメインタイトルのほうはロボットなわけで、コンピュータサイエンス全般をあつかっているのではなく、主題はあくまでも人工知能だ。星野氏はコンピュータの研究から人工生命にたどりついた研究者。いわゆる人工知能の研究者ではない。本書はいわば外からみた人工知能批判の書ということになろうか。最後は進化し自己改変するハードウェアという“禁断の技術 ”を語るところまでいってしまう少々刺激的な本でもある。といっても、もともとが《月刊アスキー》連載記事だけに寝ころんで読めるし、特に予備知識も必要ない。いや、『2001年』、『銀河帝国の興亡』、『ソフトウェア』といったSFは読んでおいたほうが楽しめると思うけど、SFオンラインの読者なら読んでるよね。まあ、伝統的な人工知能研究にはあまり擁護する余地もなさそうなので(なんて書くと怒られそうだけど)、この程度に批判的・刺激的な本のほうが現代の人工知能入門にはふさわしいかもしれない。

 などと書いてきたけれど、実は一番大事な話をまだしていなかった。本書を手にとったら、本文はさておきまずは付録2を見てほしい。これがなんと筑波大学で開講されている「科学技術とSF」という講義の昨年度講義概要。そして、本書はこの講義をもとにしたものなのだ。このタイトルの講義が毎年(それも半年ではなく通年)行われていることだけでも驚きなのだが、題材としてとりあげられているSF作品もアシモフ・クラークにとどまらず、バクスターやラッカーから士郎正宗までと幅広く、うならせられた。さらに、毎回のようにゲストが登場し、その中には瀬名秀明・福江純・佐倉統といったおなじみの名前も見つかるのだ。この講義、一度受けてみたいですね。筑波の学生なら、受講しなきゃ損でしょう。

 ところで、随所でSFについてのかなり濃いコラムを書いている“電脳司書”なる人物の正体が気になるところ。(菊池誠)

●われ思うゆえに思考実験あり

【2000/4】

【著者】橋元淳一郎

【版元】早川書房

 著者前書きはこれを「擬似科学思考実験」の本だという。思考実験って? と思うかたもおられるかもしれないが、SFファンならそれこそ日常的に「もし・・・・だったら」といろいろ考えて楽しんでるはずで、要するにそれが思考実験だ。実験するには設備が必要かもしれないけど、考えるだけならなにもいらない。SF、特にハードSFって思考実験を小説にしたものだよね。コンベンションの合宿企画にもときどきあるし、ファースト・コンタクト・シミュレーションだって大掛かりな思考実験をみんなでやろうという催しだ。では、「擬似科学」のほうは? 著者は擬似科学という言葉に市民権を与えたいのだと書いている。以前書いたことがあるけれど、僕も同意見なのだ。擬似科学的説明という言葉は、昔からSF作品を評価するときにむしろ肯定的な意味でよく使われてきたものだ。単なる嘘の科学は“ニセ科学”で結構。SFファンなら大いに「擬似科学」を楽しもう。

 本書で取り上げられるのは、「光合成する人間は可能か」「機械は自己意識を持てるか」「意識とはなにか」「時間の矢とエントロピーとカオスと量子論」など、どれも非常に大きい問題ばかり。確かに、どうせ風呂敷を広げて思考実験するなら、大きいテーマのほうがいいだろう。ただし、それだけにやはり広範な基礎知識と科学的なセンスが必要になるのだけど。まあ知識といっても、「擬似科学思考実験」なのだから、本格的な専門書を読む必要はない。町の図書館とインターネットがあれば、かなりのことが調べられるだろう。一方、科学的なセンスっていうのは伝えるのがなかなか難しいところだけど、本書は人工知能“ドクターΨ”との対話という形式を使って、議論のやりかたそのものを見せてくれる。こういうのは重要だよね。

 思考実験の内容そのものは、もちろん橋元氏だけによく練られていると思う。全面的に同意はできないけどね。特に量子力学の問題とカオスの問題についてはかなり異論があるけれど、ただし(これ重要)、それは本書の価値とはまったく関係ない。思考実験なんだからいろいろな可能性が出てきてもむしろ当然。正しいか正しくないかは二の次三の次(なにしろ未解決のテーマなんだから)。筋道をたてて考えること自体が大切だし、その過程そのものを楽しむのが正しい。読者の側も本書を読みながら、自分ならむしろこう考えるとか、もっと違う問題設定にしたほうが面白いとか、いろいろ考えてみればいい。そういう意味で本書は始まりにすぎない。考えるきっかけを与えてくれる本として高く評価したい。続きは個々の読者に委ねられているということだね。

 ところで細かいことだけど、ホーキングは時間対称宇宙を考えているという記述は古いのじゃないだろうか。「宇宙を語る」の時点で既に時間対称を放棄していたと記憶するのだけど。(菊池誠)

●新世紀未来科学

【2001/3】

【著者】金子隆一

【版元】八幡書店

新世紀未来科学  SFを題材として科学を語るというコンセプトの本にはいくつかの前例がある。たとえば、フォワードの『SFはどこまで実現するか』や一連の“スタートレックの科学”ものなどがすぐに思い浮かぶはずだ。日本の著者によるものはなかなか見当たらないのだけど、それでも福江純『SFアニメを天文する』といったあたりがその範疇にはいるだろう。本書もまたその系譜に連なる一冊。未来の科学を語るという点ではフォワードの本に近いということになるのかもしれないが、本書はなんたって金子隆一著だ。まさにこの手の本にはうってつけの著者による待望の一冊と言っていいのではないか(もちろん、フォワードもいいんだけどね)。

 今なにげなく、“この手の本”と書いてしまったが、実は“この手の本”としては少々異色かもしれない。というのも、本書の最大の特色は単にSFを“科学を語るための枕”として扱うのではなく、SFについても“存分に”語っているという点にあるからだ。本書は最先端科学の解説書であると同時に、科学的アイデアの側から関連したさまざまなSF作品を紹介するという“SFガイドブック”としての性格も強く打ち出されたものなのだ。つまり“SFファンのための科学入門”であるだけではなく(スタトレ科学本などは基本的にそういうものだった)、“科学ファンのためのSF入門”としても充分に機能するように作られているということ。

 実際、ガチガチのいわゆる“ハードSF”ばかり出てくるのだろうと予想して読み始めたところ、それこそスペースオペラからサイバーパンクまでのありとあらゆるタイプのSFが紹介されていて(いい意味で)驚かされた。“SF入門”として充分機能するというのは、そういうことだ。科学書にしてはかなり意外な作家の名前も出てくるので、すれっからしのSFファンも“どうせこの種の本は”などと思わずに、とにかく一度手にとってみることをお薦めする。

 さて、本書は科学の分野ごとに章がわけられており、宇宙開発、医学、生命科学、コンピュータ/ロボット工学、情報/通信、エネルギー、環境、と“未来科学”として思いつく限りのありとあらゆる分野が網羅されている。さらに“ファーアウト物理”と題された最後の章では、反重力やワープからテレポーテーションにタイムマシンなどまさにSFらしい(ということは、科学としてはいささかならず怪しい)内容が取り上げられていて楽しい。

 各章で具体的に議論されるテーマは合わせて50以上にのぼり、それだけでもいかに本書が労作であるかがわかろうというもの。そのテーマすべてについて、まずは概要が示されたのち、さまざまなSF作品でそのテーマがどのように取り上げられているかが紹介され、その後に現実の科学・技術についての解説が続くという構成がとられている。さらに、各テーマの冒頭には代表的SF作品名と科学としてのキーワードが掲げられ、最後に参考文献が挙げられるという具合で、実に至れりつくせり。しかも、巻末には紹介されたSF作品をテーマ別に並べたリストつきだ。いや、まさに労作。

 気になる記述もないわけではない。たとえば、熱を運動に変換するブラウン・モーターは著者が言うように“マックスウェルの悪魔のパラドックスには、非常に微小なレベルではどうやら抜け道があるように見える”ことを意味しているのではないように思う。あるいは、日本電気が特許を取得したフィールド推進が“ 理論的破綻をまったく含まない”ものであるかどうかは、本書が刊行されるやネット上で議論になった。とはいえ、そんなことは本書の欠陥でもなんでもない。

 本書はSFがアイデアの宝庫であることを改めて認識させてくれる。想像力、そうそれこそがSFの最大の武器なのだ。(菊池誠)

●フィリップ・K・ディック 我が生涯の弁明

【2001/7】

【著者】フィリップ・K・ディック ロランス・スーティン編

【訳者】大瀧啓裕訳

【版元】アスペクト

 一部の熱狂的ディック・マニアには待望の"In pursuit of Valis"の翻訳が遂に。と言われてもなんのことだか判らない向きも、もしや"Exergesis"あるいは“釈義”の抜粋だと言えばぴんとくるだろうか。それでもなんのことやら判らないというかたには、そもそもこの本は関係ない。たしかにこれはディックが書いた文章を集めたものではあるけど、普通のディック・ファンには特にお薦めできるような本ではない。“釈義”と聞いて、ああ『ヴァリス』のあれね、と思う程度のかたは、ちらっと眺めるくらいにしておいたほうがいいだろう。こんなのを喜んで読むのは、本当にごく一部のイッちゃってるディック・マニアだけだ。あとは評論家や研究者が、たしなみとして読んでおくべき本と言えるくらいかと思う。もっとも、『ヴァリス』を読んで以来どうしても頭の中のもやもやが取れなくて困っているというあなた、もしかしたら本書を読むと少しはそのもやもやが解消に向かうこともあるかもしれない。ただし、大抵の人は却ってもやもやがひどくなると思うけど。

 ディックという人は、その死と前後して評価がえらく高くなったものだから、研究書やらインタビュー集やらが次々と刊行され、それがまたちゃんと(だったり、ちゃんとじゃなかったりするのだが)邦訳されてきた。その数多いディック関連本の中でも、極北ともいえるマニアックさを誇るのが書簡集とこの"In pursuit of Valis"だろう。“ディック検定最上級のテキスト”とでも言おうか。さすがに書簡集まで訳される事態にはなっていないものの(ただし、書簡の一部は僕がかつてユリイカ誌で紹介したことがある)、本書が訳されるとは、まさにディック人気恐るべし。

 そして、マニアの立場から再度言うなら、本書はまさに待ちに待った翻訳なのだ。訳者として大瀧啓裕氏を得たことも僕たちには幸いなことだった。編者とそしてとりわけ訳者の努力には頭が下がる。いや、すごいです。

 1974年にディックが神秘体験をしたことは、ディック・ファンなら既におなじみの事実かと思う。その神秘体験に始まるさまざまな思索の過程を膨大な量のメモとして残している。これが『ヴァリス』の小説中に取り入れられて、その存在が世に知られることとなった。のだが、その実物ときたら、その量、なんと200万語、8000頁に及ぶ文章の集まりなのだという。ほとんど死海文書の世界。これを可能な限り整理して、読むに値するものを拾い出し、テーマ別に整理したのが、すなわち本書なのだ。つまり、ここに収められたものは“釈義”の一部にすぎないのだが、それでもまだ、僕たちの頭を何度もくらくらさせてくれるだけの文章が集められている。

 さて、神秘体験そのものとその解釈に興味がある向きは第一部・第二部に目が行くことと思う。編者の興味もそちらに向いている節がある。もちろん、これはこれで充分に面白いのだけど、といってこれだけが本書の読みどころではない。普通の意味で興味深いのはむしろそこではなく、神秘体験に基づいて自作を再解釈した文章を集めた第四部、それと創作メモを集めた第五部だと思う。特に後者には『ヴァリス』へ向かう途中段階のプロットが収められている。

 言うまでもないことだが、“釈義”をいたずらに伝説化・神聖化してもしょうがない。これはディックがなにを考えていたかを知るためのテキストではあっても、ここに世界の真実が記されているとか、そういった類の神秘的な文書ではない。ディックにとっては真実であったにせよ、僕たちにとって真実というわけではない。

 また、たしかに本書から『ヴァリス』三部作のバックグラウンドを垣間見ることはできるけれど、これを読まなければ『ヴァリス』三部作が理解できないというわけでは決してない。そもそも本書に収められた文章は発表を前提としたものではないのだから。『ヴァリス』は『ヴァリス』として、『聖なる侵入』は『聖なる侵入』として、『ティモシー・アーチャーの転生』は『ティモシー・アーチャーの転生』として、それぞれに完結した物語、それも見事な物語なのだから。今後、インターネット上の議論などで、“本書を読まずに『ヴァリス』は語れない”と言った発言が溢れることになるのではないかと予想されるので、この点、あらかじめ釘を刺しておきたい。

 それでも、どうしてもディックという作家の思考の迷宮深くさまよってみたいというあなた、逃れようもないディック・マニアになってしまったあなた、あなたは本書を読むしかないでしょう。僕が止めたって、どうせ読むでしょ。

 さて、ディックの小説は読んだし、もうちょっと迷宮に踏み込んでみたいけど、本書はいくらなんでも、というあなたは、とりあえずインタビュー集も出ているので、そちらを。"The Shifting Realities of Philip K. Dick"という本が“フィリップ・K・ディックのすべて”という題で訳されていて(飯田隆昭訳)、本来ならこれがお薦めのはずなのだが、残念ながら本書の後書きで大瀧氏も指摘している通り、この翻訳はとてもじゃないがお薦めできる代物ではない。早いこと絶版にして大瀧氏の手で改訳されることを望む。要するに、こういう本は訳者自身が筋金入りのディック・マニアじゃなきゃ無理なのだ。(菊池誠)

●未来のアトム

【2001/7】

評者:菊池誠

【著者】田近伸和

【版元】アスキー

ホンダのヒューマノイド開発者が開発にあたって、“アトムのようなロボットを”と言われたというのは既によく知られた話で、要するに日本人にとっては“ アトム”が“ロボット”の原体験なわけだ。しかも、日本人は欧米人に比べると、“ヒューマノイド”を宗教的なタブーと考える傾向が少ないこともあって、結果としてヒューマノイドの研究では世界の中でも日本が突出しているらしい。

 本書のタイトルは象徴的で、つまり本書は単なる“ロボット”の研究ではなく、あくまでも“ヒューマノイド”の研究を対象としたものだ。そしてそれが“アトム”である以上、単に姿が人間に似ているだけではだめで、最終的な目標は自立した意識を持つ個体としてのヒューマノイドなのだ。

 本書第二章が国内のさまざまな研究機関で進められているヒューマノイド研究のレポートになっている。僕は本書の中

でこの章を一番興味深く読んだ。

 よく言われることだが、そもそもなぜヒューマノイドでなくてはならないのか。実用性を考えるなら、むしろさまざまな目的に特化した非人間型ロボットのほうがよいに決まっているはずだ。本書ではヒューマノイド研究を通して人間を理解する、という目的が強調される。それは人間の動きであったり、認知であったり、そして意識であったりする。こうして話は、人工知能がなぜ実現できないかという昔ながらの問題に戻ることになる。実は本書の大部分はこの“知能”の問題に割かれているのだが、正直な話、ここが今ひとつ面白くないのだ

 いや、人工知能が実現しない理由を“身体性の欠如”に求め、“身体なき知能”は実現しないとする本書の立場はとてもよくわかる。個人的にはこれは正しい考えだと思う。

 しかし、この後、唯物論的な現代科学では意識を理解することはできないという見解が繰り返し表明され、どんどん心脳二元論に肩入れしていくのだ。僕はこのあたりでかなりがっくりきてしまい、読む意欲が失せかけたのだけど、まあなんとか読み通した。

 あらためて思い出したほうがいいと思う。“精神は脳内で起きる物理現象である”ことをクリックが“驚くべき仮説”と呼んだのは、一般の人にとって心脳二元論のほうがはるかに理解しやすいからなのだ。にも関わらず、科学者の多くがあくまでも唯物論的に脳内現象を理解しようとしているのには、それなりの理由も哲学もある。今、僕たちが意識のメカニズムを理解できていないからといって、即座に唯物論を捨て去るほうへ向かうのは、むしろ想像力が貧困だと思うのだが。たしかに、エックルスやペンローズは二元論的な立場にたどりついたのだけど(それもどうかとは思うにしろ)、それにはそれ相応の思索の過程があるのだ。

 この二元論に関しては、ベルグソンの思想が繰り返し引き合いに出される。なんのこっちゃと思っていると、その理由は後ろのほうで明らかになる。著者が大学生時代にベルグソンを読んで、“どんな科学書や哲学書を読んでも得られなかった「わかった」という感じがした”というのだ。これはもうがっかり、としか言えない。なるほど、本書はもともとベルグソンから出発しており、終始一貫その立場からしかものを見ていないのだ。ベルグソンほどには精神の実在を信じられない、という言い訳は随所にあるのだけど、これは言い訳にすぎないだろう。

 唯物論と並んで批判されるのが“要素還元主義”なのだが、「複雑系」「オートポイエーシス」「アフォーダンス」とファンシーなキーワードが並ぶ様子を見ると、こちらもあまり深く考えた話ではなさそうだ。熱力学第二法則も間違ってるし。

 言いたいことはいろいろある。唯物論を否定する前にもっと考えたほうがいいことはたくさんあるはずだ。でも、ここでやめておこうと思う。本書は前半の研究レポートと後半に何人かとりあげられる研究者インタビューのみ価値がある。やはり、現場の研究者の声は面白い。一方、後半三分の二の多くを占める著者自身の思索は、少なくとも僕にはこんなに長々と書くほどの価値があるものとは思えなかった。もっといろいろ迷ってくれればいいものになったかもしれないのだが、残念ながら著者の“ベルグソン信仰”はかなり強固で迷いがなさすぎて取りつく島もない。どうしてそんなに物理学が嫌いなのかなあ、という悲しい気分だけが残った。

 最後にひとつだけつけくわえるなら、この著者は“鉄腕アトム”すらちゃんと愛してなかったのだ。本書を書くためにアトムを読みなおしてはじめて、苦悩するヒューマノイドとしてのアトム像に気づいたというのだ。そんなこと……普通知ってるでしょ、ファンなら。タイトルにもしてるくせに。と、ここでもまた悲しくなったのだった。(菊池誠)


2010/05/19 熱力学についての小文・テキスト

カテゴリー: 日 記

だいぶ以前に書いたテキストとエッセイです

「なんの特徴もない熱力学入門」

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/texts/netsu_compact.pdf

(それなりにちゃんとしているが、入門で終わっている。半セメスター分の教科書という感じ)

「すべては熱になる: 熱力学第二法則」

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/texts/saibou1.pdf

(この小文は以前にも紹介したことを思い出した)


2010/05/19 携帯電話の脳腫瘍リスクについてのInterphone study

カテゴリー: サイエンス

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1231323525#CID1274066855

と次のコメントで教えていただきました

IARCが携帯電話と脳腫瘍の関係についてのInterphone Studyの結果をまとめたそうです。

論文はこれ(pdf)

http://www.oxfordjournals.org/our_journals/ije/press_releases/freepdf/dyq079.pdf

プレスリリースは以下のpdfファイルに

http://www.iarc.fr/en/media-centre/pr/2010/pdfs/pr200_E.pdf

論文の結論

This is the largest study of the risk of brain tumours in relation to mobile phone use conducted to date and it included substantial numbers of subjects who had used mobile phones for >= 10 years. Overall, no increase in risk of either glioma or meningioma was observed in association with use of mobile phones. There were suggestions of an increased risk of glioma, and much less so meningioma, at the highest exposure levels, for ipsilateral exposures and, for glioma, for tumours in the temporal lobe. However, biases and errors limit the strength of the conclusions we can draw from these analyses and prevent a causal interpretation.

(この研究は、携帯電話の使用と脳腫瘍リスクの関連を調査したものとしてはこれまでで最大規模のものであり、調査対象には10年以上の携帯電話使用歴を持つ人が多数含まれる。

神経膠腫(glioma)・髄膜腫(meningioma)とも、携帯電話の使用によるリスク上昇は認められなかった。

最大の被爆レベルでは、(頭の)同じ側で電話をかける人にはそちら側のgliomaのリスクが上がるという示唆があり、meningiomaについてもはるかに弱いながら同様の傾向が示唆されている。・・・このあとのfor glioma, for tumers in the temporal lobeの文法がわからないので、どなたかご教示ください・・・。しかし、バイアスと誤差のためにそれらの分析からは強い結論を得ることができず、因果関係があると解釈するには不充分である)

プレスリリースの結論

A reduced OR for glioma and meningioma related to ever having been a regular mobile phone user possibly reflects participation bias or other methodological limitations. No elevated OR for glioma or meningioma was observed ≥10 years after first phone use. There were suggestions of an increased risk of glioma, and much less so meningioma, in the highest decile of cumulative call time, in subjects who reported usual phone use on the same side of the head as their tumour and, for glioma, for tumours in the temporal lobe. Biases and errors limit the strength of the conclusions that can be drawn from these analyses and prevent a causal interpretation.

プレスリリースの"What next?"

Dr Christopher Wild, Director of IARC said: "An increased risk of brain cancer is not established from the data from Interphone. However, observations at the highest level of cumulative call time and the changing patterns of mobile phone use since the period studied by Interphone, particularly in young people, mean that further investigation of mobile phone use and brain cancer risk is merited."

Professor Elisabeth Cardis said that "the Interphone study will continue with additional analyses of mobile phone use and tumours of the acoustic nerve and parotid gland." She added:,"Because of concerns about the rapid increase in mobile phone use in young people − who were not covered by Interphone −, CREAL is co-ordinating a new project, MobiKids, funded by the European Union, to investigate the risk of brain tumours from mobile phone use in childhood and adolescence."

今回の研究では携帯電話が脳腫瘍リスクを挙げるという結論は出なかった。ただし、今後も研究は続ける必要がある、ということですね。

Interphone studyから「関係あり」という結論が出るのではないかと思っていたのですが、結局、そうはならなかったようです。

[追記]

いずれにしても、この結果からすれば、他人の携帯電話が影響する可能性は気にしなくてよいでしょうから、自分の携帯だけの問題ですよね。この結果でもなお気になる人は(1)携帯を使わない(2)なるべく使わない(3)ハンズフリーのヘッドセットを使う、などいくらでも対策ができます。ヘッドセットを使うのは、脳腫瘍云々とは関係なく、両手が自由になるという意味でもいいのではないでしょうか。


2010/05/19 SFオンラインのブックレビュー1

カテゴリー: 日 記

1997年から2001年にかけて、今はなき「SFオンライン」に連載したブックレビューの中から、ニセ科学・スケプティクス・科学論に関連しそうなものをピックアップしました。

今書くと違う評価になるものもありますが(僕自身の考え方も変わっているはずなので)、書き直すのも大変なので、とりあえず、すべて当時のままで。

以下の本をとりあげています

きわどい科学

カール・セーガン 科学と悪霊を語る

なぜ人はニセ科学を信じるのか

トンデモ本1999

人類はなぜUFOと遭遇するのか

「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用

サイエンス・ウォーズ

トンデモ大予言の後始末

わたしたちはなぜ科学にだまされるのか

虹の解体

新・トンデモ超常現象56の真相

オカルト探偵ニッケル氏の不思議事件簿  

................

【1997/6】

●きわどい科学

マイケル・W・フリードランダー

田中嘉津夫・久保田裕訳

白揚社

 超科学・擬似科学を分析する本といえば、古くはマーチン・ガードナーの『奇妙な論理』が有名だし、最近では『ハインズ博士の超科学を斬る』や『と学会』による『トンデモ超常現象99の真相』などがある。また、科学者による不正・捏造などを専門に扱ったものとしては『背信の科学者たち』が知られている。それぞれに力点の置きかたが違うので、この手の話に興味のある向きは、どれを読んでも損はないと思う。

 そういった本と比べた時、本書の最大の特徴は、通常科学と擬似科学の違いを議論することに力を注いでいる点である。したがって、『と学会』の本のように読んで笑うことを期待する読者や、超常現象の謎解きを期待する読者には、残念ながら本書は期待外れだろう。本書はむしろ、考え、議論するための本である。

 むろん、誠実な言いかたをすれば、科学と擬似科学の間にはっきりとした境界線をひくことはできない。そう言ってしまうと、擬似科学者の皆さんにここぞとばかりにつけこまれてしまう危険が大きいのだけど、勘違いをしてはいけない。境界が引けないことと区別できないこととはまた別の問題だ。実際には、ほとんどの場合、擬似科学は明白に擬似科学だし、通常科学はなんの問題もなく通常科学なのである。なんとも判断のしがたい「きわどい」ケースはめったにない。本書は、まさにそのきわどい部分に焦点を当てている。

 さて、科学に誤りはつきものであって、単なる誤りはそれだけで擬似科学とは呼ばれない。実際、誤りが新たな発展のもとになることもあるし、誤りが擬似科学に化けることもある。その違いがどこからくるのかを探るには、結局、個々の事例についての検証を積み重ねてゆくしかないのだろう。本書では、ヴェリコフスキーの『衝突する宇宙』のようなまごうことなき擬似科学、N線やポリウォータなど少なくとも一時は真剣に捉えられた現象、超心理学のように分野自体が科学と認められるかどうか怪しいもの、などが検討の対象になっている。原書が95年と最近のものであることから、フライシュマンとポンズによる常温核融合や元東北大助教授の早坂氏らが発表した右回りと左回りのジャイロでは重さが異なるという実験などの新しい話題もとりあげられている。

 全体として、極めて誠実に書かれた本である。通常科学と擬似科学の境界には判定の難しいきわどい部分があることを認めつつ、科学が信頼されるために、科学者は擬似科学に立ち向かうべきだ、という姿勢をはっきりと打ち出している点に好感がもてる。そう、立ち向かうべきなのだ。科学のありかたを考えたいかたには一読をおすすめする。

 ところで余談だが、上述の早坂氏は開き直ったのか、最近は『元東北大教授』の肩がきを使って擬似科学の宣伝に専念しているようだ。実に困ったおぢさんだ。しかし、氏は退職時には助教授だったはずである。通常科学の権威に反発しているかにみえる擬似科学者も、所詮は肩がきによる権威にすがるしかないということか。彼がいかにして擬似科学者になったのかは大変興味深いところだが、少なくとも現在の彼は明らかに我々の敵である。

 最後にちょっと疑問を。本書の帯に推薦文を寄せているA.C.クラークのことだ。彼は最近、WIRED誌のインタビューに答えて、今注目している研究として、いわゆるフリーエネルギー現象と超伝導体による重力遮断を挙げていた。私個人はどちらも明白に擬似科学だと思うのだが。クラークはそのインタビューと本書の推薦文の間でどう折り合いをつけているのだろうか。SFファンとしては、ちょいと気になる。

(菊池誠)

【1997/10】

●カール・セーガン 科学と悪霊を語る

カール・セーガン、青木薫訳

新潮社

 カール・セーガンの訃報に接してから約10ヶ月。恐らくSFファンの間ではもっとも有名な科学者の一人だったセーガンの、本書が遺作ということになる。

 セーガンは研究者として惑星科学や地球外生命体探索に業績をあげただけでなく、科学的知識にもとづいて、実に多彩な活動を行なったことで知られている。科学解説家としては『コスモス』をはじめとするすぐれた科学啓蒙書を著したし、SCICOPのメンバーとして超常現象や似非科学を科学的に調査し、さらにはSF小説『コンタクト』までも遺している。また、核戦争が地球規模の災害を引き起こす可能性を指摘した『核の冬』説によって、科学者が科学そのものを武器として社会と積極的に関わっていく可能性を示したのだった。科学者がともすれば研究だけに閉じこもりがちになる中で、セーガンはなぜ自分の研究以外の活動にこれほどまで力を注いできたのだろうか。セーガンの遺言とも言うべき本書に、僕達はその理由を読み取ることができる。

 本書は惑星科学について解説したものでもなければ、地球外生命について解説したものでもない。というより、これは普通の意味での科学啓蒙書ではない。では、なにについての本かといえば、科学と科学的思考法についての本なのである。セーガンによれば、平均的なアメリカ人の科学的知識のレベルは今や悲惨なほど低い。科学は毛嫌いされ、かわりに似非科学やカルトが幅をきかせている。本書ではそういった似非科学の例がいくつも取り上げられているのだが、中でもUFO現象と宇宙人の問題には多くのページが割かれている。そこでのセーガンの態度をひとことで要約するなら、穏健な懐疑主義とでもなるだろうか。UFO信者があまりにも騙されやすすぎると嘆くだけではなく、UFOがエイリアンクラフトである可能性を頭ごなしに否定する科学者の態度もやはり科学的ではないと主張する。科学的態度とはとりもなおさず懐疑的態度のはずだからである。

 反証不可能な説を振りかざすだけの似非科学と、反証によって誤りを修正しながら発展する科学とを比べたとき、現実に活用できるのが科学のはずだ。にもかかわらず、似非科学のほうが受け入れられてしまうのは、懐疑的態度を取り続けるよりは信じてしまうほうが簡単だからに違いない。セーガンはそれを認めた上で、それでも懐疑的精神を要求する。健全な懐疑的精神を持たなかったことが、たとえば中世には魔女狩りに結びついたと考えるからである。ここにいたって、本書の原題である「悪魔に取り憑かれた世界」の意味が明らかになる。悪魔や悪霊、あるいは魔女が実在するはずはないことなど、疑う心をちょっとだけ持ってさえいれば明らかなはずだったのだ。そして、それを現代に敷延するとき、懐疑的精神こそが民主主義を維持するに欠かせないものであることが結論される。科学と民主主義とが実は同じ精神に基づくというのが、本書の主張である。

 セーガンは、科学者に向けて、自分の研究に閉じこもっているだけではなく、科学を一般に普及する努力をするよう訴える。科学者自身の努力がなければ科学的精神は伝わらないからだ。その一方で、科学に資金を提供する行政と納税者に対しては、基礎研究の重要さを説くことも忘れない。知的好奇心のみに基づく何の役に立つのかわからない研究こそが、長期的には科学の発展を支えるはずだからだ。ところで、こういった主張を日本の科学者はどのように受け止めるのだろうか。後者のみ、というのではちょいとばかり身勝手すぎるというものだが。

 さて、セーガンのもうひとつの遺作とも言うべき映画『コンタクト』にあれほど皮肉な結末が用意された意味も、本書を読めば明らかだろう。科学者として誠実であろうとすれば自分の体験にすら懐疑的態度で接しなくてはならないという主人公の葛藤と、彼女をコンタクティとして無批判に受けいれようとする大衆との対比は、まさに科学と悪霊がせめぎあう姿そのものなのだ。

 『コンタクト』を見よう。本書を読もう。そして考えよう。これはそういう本だ。(菊池誠)

【1999/3】

●なぜ人はニセ科学を信じるのか

 マイクル・シャーマー、岡田靖史訳

 早川書房

 いわゆる懐疑主義の立場で書かれた本としては最新のもの。原書が97年だから、ほとんどリアルタイムの紹介といっていいだろう。この分野には、マーティン・ガードナーの古典的名著“奇妙な論理”以来半世紀にわたって脈々と連なる歴史があり、その間、いくつもの優れた本が出版されている。敢えてその歴史に新たな一冊をつけ加えようというだけあって、本書も隅々まで配慮のいきとどいた面白い本だ。まずは、すべての人に一読をお勧めしたい。みんな読もうね。

 本書が扱う内容は、ESPなどの超常現象からエイリアン・アブダクション、記憶回復運動、カルト、創造論対進化論、さらには歴史修正主義にいたるまで、実に多岐に渡っている。これだけの内容を包括的に書けること自体、驚きだけど、それもそのはずで、著者は懐疑主義協会理事で「スケプティック」誌の発行人なのだ。なるほど、この手の本には最適の書き手というわけだ。

 ちなみに、この分野での優れた本は日本でもそれなりの数書かれている(優れてない本ももちろんある)。最近のものなら、“超常現象をなぜ信じるのか ”(菊池聡、ブルーバックス)などは大変よくできた読みやすい本なので、一読をお勧めしておく。だけど、これにしても、認知心理学の立場で書かれたものだけに、扱う範囲が自ずと限られてくる。シャーマーによる本書のように、包括的なものはあまり見当たらないようだ(“と学会”の本など、包括的といえなくもないけど、方向性が違う)。このあたり、アメリカの懐疑主義の底力というべきか。まさにガードナー以来の伝統。

 本書が他の類書と際立って違う点を思いつくままに挙げてみよう。まず、著者自身がかつてはかなり怪しげな健康法を試したり、エイリアンとの遭遇を経験したりしていること。懐疑主義者として、そういう経験は強みだ。そういえば、松尾貴史の“カルトの祓いかた”もそんな本だったっけ。また、懐疑主義者としてテレビ番組や討論会に参加した経験が書かれていること。実のところ、懐疑主義者が最善を尽くしたからといって、超常現象ビリーバーや創造論者が改宗するわけではないのだけれど、それでも討論に出かけていくのがシャーマーの姿勢なのだ。もうひとつ、創造論者との闘いが大きなテーマのひとつとして、多くのページが割かれており、中でも創造論者と科学者との間でくりひろげられた裁判の経過がかなり詳細に記述されていること。この裁判、いったんは科学者側の分が悪くなったりして、結構はらはらさせられる。創造論者は議論のテクニックを磨いているので、対する側も充分に戦略を立てなくてはならないというのが、ひとつの教訓だ。こう言っちゃなんだけど、大槻先生のように不用意な発言ばかりしてたんじゃ、超常現象ビリーバーに勝てるわけないよ、というわけね。もっとも、日本のテレビに出てくるビリーバーは議論のテクニックもへったくれもないみたいだけど。

 歴史修正主義、特にホロコースト否定論が大きく取り上げられている点も、特筆しておくべきだろう。もちろん、あのマルコポーロ事件も触れられている。ホロコースト否定論者たちも、実際に会ってみると個々には好人物だというあたり、これが一筋縄ではいかない問題であることの表われと言えそうだ。おそらくそうなのだろう。日本でも、南京大虐殺否定論や従軍慰安婦否定論など、歴史修正主義(自由主義史観というのだったか)の声が最近うるさくなっているけれど、たぶんそれを唱えているご当人たち個人個人は特に悪人というわけじゃないのだろうと思う。たぶん、真剣に証拠を検討して、ホロコースト否定とか従軍慰安婦否定とかの結論にたどりついたのだろう。しかし、シャーマーは、個々の証拠は間接的なものであっても、多くの証拠や証言を集めてくれば、それが全体としてホロコーストの実在を証明するのだ、と明快に語る。いや、まったくそのとおり。

 うーむ、またまた長くなってしまった。読みながら、つくづく思ったのだけど、“奇妙な論理”から半世紀近く経つというのに、世間の状況はほとんと好転していないんじゃなかろうか。いや、日本ではむしろ、“ニセ科学”が以前にもまして幅をきかせているような気がする。本書が少しでもその状況を変える役に立ってくれればいいのだけどなあ。しかし、超常現象ビリーバーや自由主義史観の人たちはこの本を読まないだろうな。SFファンはどのみちビリーバーにならんだろうし。もっとも、生半可な知識に基づく懐疑主義ってのもそれはそれで質が悪いので(ネットとかパソコン通信とかでときどき見かけるんだ)、立派な懐疑主義者になるために一読してくれ。翻訳には少々不用意な点が散見するけど、特に支障はないだろう。

 ところで邦題について。“ニセ科学”とはなかなか思い切りがいい表現だ。原題はPseudoscienceで、最近は“擬似科学”という言葉をよく使うようなのだけど、いまひとつしっくりこない。SFの書評で“擬似科学的説明”なんていういい回しがでてきたら、これはむしろ褒め言葉でしょう。僕自身もそういう文脈で“擬似科学と書いたことがあるし。ここでPseudoscienceと呼ばれているのは、似非科学、つまり科学のように装ってはいるが、全然違うもの。”超科学“と呼んでしまうと、それはそれで範囲を狭めてしまう。そういう意味では、いっそ本書の邦題のように、”ニセ科学”と言いきってしまうのも、すっきりしてていい。では、科学とニセ科学とは本質的になにが違うのか。本書ではこの点が繰り返し強調されている。科学が提示するのは、常にその時点での暫定的な理論にすぎない。新たな実験が出れば理論は修正され、進化する。修正されうるからこそ、科学を信頼することができるのだ。科学は間違うがニセ科学は間違わない。間違わないものを信じるわけにはいかないのだ。(菊池誠)

【1999/4】

●トンデモ本1999

 と学会

 光文社

 あらかじめお断りしておくが、僕は「と学会」の会員である。といっても、活動的な会員ではないし、「と学会」の出版物には(『トンデモ本の世界』巻末の名簿を除いて)一切タッチしていないので、この書評も別に“自分を褒めてる”わけではないよ。

『トンデモ本の世界』『トンデモ本の逆襲』以降、「と学会」名義の本としては『と学会白書』シリーズがあるものの、例会の採録などが中心で、いまひとつ玉石混交、はっきり言って薄味の感があった。その点本書は週刊誌の連載記事をもとにしているだけに、『世界』『逆襲』の正当な続編といえるだけのクオリティを持っている。要するにはっきりいえば、はずれが少ないということ。『神々の指紋』や『聖書の暗号』あるいは『脳内革命』といったまさに大ネタ中の大ネタから、内田の有紀坊も信じているDr.コパまで、あいかわらず世にはびこるトンデモ本の数々が紹介される。

 もっとも、本書の特色はトンデモ本のほうではなく、ところどころに紛れ込んでいる“非トンデモ本”のほうにある。たとえば、中村うさぎ『女殺借金地獄』。僕のまわりでも著者の爆裂ぶりが大人気となったエッセイで、いや実にとんでもない本なのだけど、本書の前書きでも明言されているとおり、いわゆる“ トンデモ本”ではない。“トンデモ本”ではないが、やっぱり一読の価値がある本なのだ(いや、ほんとにすごいんだってば)。こういうものが混じっていることを、“水増し”と考えるかどうかは評価の分かれるところかもしれない。僕はむしろ、こういう爆笑本や面白本、あるいはまじめな“反オカルト本”などを混ぜたことで、本全体として引き締まったという印象を受けた。“トンデモ本”ばっかりだとあまりにお腹いっぱいになっちゃうしね。

 なお、北朝鮮および韓国での歴史修正主義を紹介・批判する永瀬唯の記事が、その徹底ぶりで読ませる。(菊池誠)

【1999/6】

●人類はなぜUFOと遭遇するのか

カーティス・ピープルズ、皆神龍太郎訳

 ダイヤモンド社

 ケネス・アーノルドが謎の物体を目撃してから半世紀、ちょうど世紀末が近づきつつあることも手伝ってか、UFO事件を包括的に扱った研究書が昨年あたりから続けて翻訳されている。代表的なものとしては、キース・トンプスン「UFO事件の半世紀」(草思社)やジョン・スペンサー「UFO百科事典」(原書房)あたりがあげられる(もっとも、後者はかなり問題のある本のようだけど)。また、ロズウェル事件についての米空軍調査レポートを翻訳した「実録ロズウェル事件」(グリーンアロー出版社)も忘れるわけにはいかない。

 本書もまた、綿密な調査に基づいて数々のUFO事件を年代を追って検証したものとして翻訳が待たれていた一冊だ。

 著者は懐疑主義の立場を明確にした上で、UFO目撃現象(コンタクトやアブダクションも含めて)がまさにアメリカのその時代その時代の空気を反映したものであったことを例証してゆく。淡々と書かれているので、一気に読み通すのは少々しんどいが、著者の主張には説得力がある。もっとも、UFOビリーバーにだって、本書の詳細な索引と文献リストは役に立つはずだ。資料的価値とはそういうものだ。相変わらず、一次資料に当たらないまま、いいかげんなことを書き散らすUFO本(ビリーバー本のみならずUFO批判本も含め)が絶えない中、UFO現象の歴史を本当に知りたい人には、とにかく資料的価値抜群の本書をお薦めする。似た内容ながら、UFOの神話的側面を強調したトンプスンの本と並べて読むのもいいだろう。どちらも今後UFO問題を語る上で必ず読まねばならない本になるはずだ。

 なお、日本版には、原著刊行以降の情報を盛り込んだ訳者による長文の補章がついていて、なかなか親切。また、瀬名秀明氏がなかなか熱い(しかも長文の)解説を寄せていて、こちらも一読の価値ありだ。個人的には、今だからこそUFOネタのSFを読みたいという気持ちがあるので、瀬名氏の問題提起には共感する部分があった。ただし、誉めてばかりはいられない。なんとしたことか、この本、校正が全然なってないじゃないか。いい本なのに実に惜しい。出版社の反省を求めたい。

 ところで、UFOがアメリカの”時代”に強く影響されたものだとすると、日本でのUFO現象とはなんだったのだろうか。そういう検証もあってよさそうに思うが。(菊池誠)

【2000/7】

●「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用

 アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン

田崎晴明、大野克嗣、堀茂樹訳

 岩波書店

●サイエンス・ウォーズ

 金森修

 東京大学出版会

 “サイエンス・ウォーズ”と名づけられた科学論論争(科学論争ではない)のさなか、理論物理学者アラン・ソーカルが、一本の論文をカルチュラル・スタディの雑誌『ソーシャル・テキスト』に発表した。ポストモダンの文献を縦横に引用しつつ、“ポストモダン科学”の方向性を高らかに宣言したこの論文が、実はまったく無内容ででたらめなパロディ論文だったことが、ソーカル自身によって暴露される。これがいわゆる“ソーカル事件”だ。 では、カルチュラル・スタディとは、もっともらしい言葉さえ並べてあれば無内容でもかまわないという言葉遊びの世界だったのか。ソーカルがとった戦術の是非もあって、激しい論争となったが、カルチュラル・スタディ側が大きなダメージを受けたことは間違いない。

 そのソーカルが同じく物理学者のブリクモンとともにまとめた本書は、フランス思想界の巨人たちの著作に見られる科学の“濫用”を分析したもの。ソーカル事件の背景とソーカルの意図を理解するには格好の本であるのは当然として、重要な問題提起の書でもある。 もっとも、ジャック・ラカンにもジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリにも、当然ブルーノ・ラトゥールにもなんの興味もないかたのほうが多いと思うので、そういうみなさんのために、手短かに結論をまとめておこう。一連の“サイエンス・ウォーズ”の流れの中で書かれたとは言え、本書は本来論争を呼び起こすような類のものではない。“これは、サイエンス・ウォーズではない”という帯の文句は、その意味で正しい。これは要するに『トンデモ本の世界』です。上記の人達に特に興味がないなら、読んで笑っておしまいでいいんじゃないでしょうか。なんてわかりやすい要約。あ、でも書きかたは、別宮貞徳が誤訳・悪訳を指摘するときのそれに近いかも。以上終わり。

 にもかかわらず本書が論争を巻き起こす(たぶん日本でも)のは、俎上に乗せられたのが、ラカンであり、クリステヴァであり、ドゥルーズ・ガタリであり、ボードリヤールであり、とフランス思想界を代表する面々だからだ。

 本書では便宜上彼らをひとまとめにポストモダニズムの思想家と位置づける。彼らの書くものには数学や物理学の概念が頻繁に登場する。ところが、その理解がひどく間違っているし、そもそもそういう概念がなぜ適用可能かが全く論じられないというのだ。

 ラカンがトポロジーを精神分析に応用してみせるとき、その“数学”がいかに間違っているか。ラカンのテクストから本書に引用された部分を読めば、それが呆れるほどの間違いと無意味な記述の連なりであることがわかる。しかし、単に間違っていることだけが問題なのではない。ソーカル達がより深刻な問題と考えているのは、精神分析とトポロジーがなぜ関係づけられるかが全く議論されていないという点だ。

 あるいは、ドゥルーズとガタリが数学や物理の概念を持ち出すとき、それらがいかにでたらめに使われて、結果として無意味な文章が書き連ねられることになっているか。そして、なぜそこに数学や物理の概念を使っていいのかが全く論じられていないこと、本書はそういったことを淡々と例証してゆく。

 ソーカル達もこれによって、ラカンなりドゥルーズ・ガタリなりを全否定しているわけではない。単に“科学”の濫用が行われている箇所を取り上げて、間違いを間違いと指摘しているだけだ。その意味で、本書は極めて明解だし、いかにラカン派であれ、ドゥルーズ信奉者であれ、反論の余地はほとんどなさそうだ。

 たぶん、彼らはそれ以外の部分で意味のあることを書いているのだろう。しかし、そういった思想家たちが、自分では理解もしていない科学理論を単に虚仮脅しのために持ち出したのだろうことは、本書によって周知のことになってしまった。今後、たとえばラカンとトポロジーについて何かを語るためには、充分考える必要が出てくるはずだ。いや、ドゥルーズ・ガタリやラカンに苦しめられている学生にとっては、これはこれでひとつの朗報なのかもしれない。テキストが意味不明なのは、自分の理解力が足りないのではなく、もしかしたら本当にそれは無意味な記述だからかもしれないのだ。

 以前、量子力学の哲学に関わる本を眺めていたら、たしか物理学者向け教科書に関してだったと思うが、物理学者の記述は哲学者には粗雑にすぎる、という趣旨の文章を見つけて感心したことがある。これが哲学の心意気というものだろう。確かに物理学者は粗雑な議論をする。それにはそれなりの理由があるのだけど、それはさておき、哲学者であれ思想家であれ、物理学者より更に粗雑な議論をするようでは存在価値がない。要するに、そういう話だと思う。ではなぜ、ラカンやドゥルーズ・ガタリが、(少なくとも部分的には)粗雑な議論をしているにも関わらず思想界の英雄となったのか。それはそれで、人文科学分野での科学社会学のテーマとして、充分に議論されるべきだろう。

 本書のもうひとつのテーマは、認識論的相対主義や社会構成主義への自然科学者としての反論である。僕自身は、トーマス・クーンのパラダイム論『科学革命の構造』を読んで、むしろ当たり前のことが書かれていると感じるのだが、極端な読み方をしてしまうとパラダイム論は認識論的相対主義の基礎理論となる。

 ソーカル達が本書で展開している議論は、自然科学者として自然かつ穏当なものだ。認識論的相対主義にしろ科学の社会構成主義にしろ(分けるべきものかどうかはともかく)、ある程度までは正しいし、必要なものだ。あるいは、いわゆる観測の“理論負荷性”にしても、それ自体が特に誤りというわけではない。ところが、それを極限まで推し進めて、あらゆる「実在」や「真実」を相対的なものであり社会的に構成されたものだと言い切るなら、それは単なるナンセンスに落ちてしまう。問題は、そのように「実在」を一切否定する極端な相対主義が、社会で一定の力を持っている(そして、アカデミズムでは大きな勢力となっている)ことだ。ソーカル達はそこに危機感を覚え、異議を唱える。そして、僕たちもまた、これには声をあげるべきなのだ。

 相対主義を根拠とした政治的言説はどうなのか。たとえば、フェミニズムの立場から、男性的科学における真理は女性にとっての真理とは限らない、といった主張がなされることはどうか。本書でも、それに近い主張をするリュス・イリガライの(ナンセンスな)文章が引用されている。僕自身が数年前に読んだ『ヴェールをとる科学』(L.J.シェパード著、誠信書房)という本も、やはり相対主義的立場からフェミニズム科学を論じたもので、基本的にはナンセンスだったと思う。真のフェミニズム科学を目指すものにとっては、こういったナンセンスはむしろ排除すべき邪魔ものだろう。あるいは、意味のある科学哲学を目指すものにとって、極端な相対主義は敵であるはずだ。フェミニストと自然科学者、科学哲学者と自然科学者はアド・ホックに敵同士なわけではない。むしろ、共通の敵がいるということだろう。

 極端な相対主義者は、おそらくオール・オア・ナッシングあるいは二分法の罠に落ちているのだ。科学者は必ずしも論理的に仕事をしないが、といって終始非論理的に仕事をしているわけではない。自然科学者には自然という相手があるので、どれほど頭で考えるだけですませたくても、それではすまない事情があるし、物事を二分法に落としたくても落とせない事情がある。理論偏重で、頭で考えることだけに重きを置いて、現実ときちんと向き合うことを放棄したとき、恐らく人は二分法の罠に落ちるのだろう。自然科学者が自然を見据えなくてはならないように、社会科学者は社会を、あるいは人文科学者は人間を見据えなくてはならないのだ。そういう目で、本書に引用されたさまざまな文章を読みなおすと、やっぱりあまりに面白過ぎる。

 ソーカル自身が自分は左翼であると明言していることからもわかるように、本書の最大の意図は、現代の左翼(を自認する)知識人が実社会から目を背けて相対主義に落ち込み、また無意味な言葉遊びに終始するという風潮への異議申したてにある。ニカラグアのサンディニスタ革命政府下で数学を教えたというソーカルの経歴は、そのために大きな意味を持つ。アカデミズムを一歩も出ることができない(いわゆる)知識人は、この事実の前に立ちすくむしかないのではないだろうか。

 ところで、二分法の罠は、トンデモ本に多く見られる傾向でもある。トンデモ科学は往々にして、頭だけで考えて本来の対象である自然を見ないところから生れる。やはり、本書は『トンデモ本の世界』なのだった。

 さて、ソーカル・ブリクモンに続くようにタイミングよく出版された『サイエンス・ウォーズ』(金森修、東京大学出版会)にも簡単に言及しておこう。本書はソーカル事件に対して日本の科学論者が本格的な批判を行ったものとして注目される(ソーカル事件関連以外の部分はとりあげないことにする)。まずは、ソーカル事件前夜からの状況を概観する目的には好適な本と言えるだろう。ただし、金森氏自身はソーカルのやり口に強烈な不快感を表明しているので、そこは理解しておかなくてはならない。

 しかし、どれほどソーカルに反感を覚えようと、『「知」の欺瞞』の指摘自体はなかなか反論のしようがないものであるし、事実、本書を一読すれば判る通り、金森氏も『「知」の欺瞞』が提起した問題のかなりの部分にむしろ賛成しているのだ。だったら、基本的に賛成という立場で、“しかし”と書いたほうが、いっそすっきりしたのではないかと思うのだが。

 どうしてもそこに踏み切れないためか、本書では、あまりにも当たり前の内容であることをもって、あるいは、相対主義批判に新味がないことをもって、『「知」の欺瞞』の価値を矮小化しようとしているのだが、どうにもこれは苦しい。金森氏自身がラカンやクリステヴァをなんら評価していないというのは事実なのだろうけど、世間でラカンが依然として権威であることに変わりはない。

 『「知」の欺瞞』の価値は、読めば誰にでもわかる当たり前さにある。ラカンのテクストは難解でわからない、といった話ではない。ラカンのテクストのこの部分には単にでたらめが書かれている、とそういう話なのだ。当たり前であることに価値を見出せず、新味がなければ意味がないとするのは、アカデミズム内部の論理に絡め取られているからではないか。残念ながら、ここでの論理は科学論業界でしか通じないように思う。

 新奇性に重きを置き過ぎた結果、うわべだけのラジカルさを追求する風潮を生み、それが認識論的相対主義の蔓延を招いたのだとすれば、今求められるのは新しさではないはずだ。問われているのは素朴なバランス感覚だろう。共感できる部分も多いだけに惜しかった。

 ところで、『「知」の欺瞞』には副作用(というか、これこそが主たる作用というか)がある。たとえば、昨年話題になった東浩紀のデリダ論『存在論的、郵便的』(この本自体は、僕のような素人にも輪郭くらいはおぼろげに見える程度に明解に書かれているように思う)の中で“脱構築”と不完全性定理を関係づけた部分に出会うと(もっとも、それは柄谷行人に従ったものらしいけど)、あるいはラカンと不完全性定理への言及に出会うと、さてここで不完全性定理を持ち出すことは正当化されているのか、と立ち止まって考え込まざるをえなくなる。これはなかなか悲しいことではあるけれど、しかたがない。東のような若い思想家が『「知」の欺瞞』の問題提起に応えるべきなのだろう。彼の世代にとって、ラカンやドゥルーズ・ガタリは守るべき権威ではないはずだから。なんたって、まだDon't trust over thirty.と言える歳なのだし。

 最後にソーカル事件について。『ソーシャル・テキスト』側に対して同情的な意見もあるのだけれど、量子重力の議論にいきなりシェルドレイクの形態形成場が現れるというニューサイエンス的展開を読めば、少なくとも“まともな論文ではない”ことくらいはわかってしかるべきだったと思う。そのために量子重力について知っている必要はない。求められていたのは、まさに『トンデモ本の世界』程度の知識だ。

 もうひとつ。カルチュラル・スタディの雑誌が、まさにカルチュラル・スタディの研究対象になったわけだから、それはそれでよしとする、という対応もありえたと思う。科学社会学という分野が存在する以上、科学社会学社会学が試みられるのは、必然だったのだろう。これ自体は、誰も特権的立場にいることはできないことを明らかにしたという意味で、カルチュラル・スタディなり科学社会学なりの目標と合致するとも言えるのではないだろうか。

 念のためにつけくわえておく。ポストモダニズムが建築や文芸批評などの分野で成功を収めてきたことは間違いない(限界があるのは当然として)。ポストモダンという考え方そのものが悪いわけではない。それを芸術以外の社会科学や哲学に持ちこむことができるのか、そういう実験が行われ、それは恐らくあまりに極端に走ったために失敗したのだ。(菊池誠)

【2000/7】

●トンデモ大予言の後始末

 山本弘

 洋泉社

 トンデモ大予言の後始末  世界の終末からもう1年経ってしまったのだ。いくらなんでも、あれだけ騒いだんだから、なにかしらのパニックくらいは起きるのだろうと思っていたのだけど、あまりにも何も起きないまま、気がつけば1999年8の月が始まっていたのだったっけ。みんな終末を信じてたんとちゃうんかい。まあ、たしかに終末より面白いことはたくさんあるからね。みんな、意外に健全だったってことか。

 そんなわけで、『トンデモノストラダムス本の世界』の続編が登場だ。なにも起こらなかった今だからこそ、本書は面白い。あのとき、そしてあれから、五島勉やら飛鳥昭雄やらははどうしたのか。そういうまさに“後始末”を読むことができるのだから。山本氏によれば、五島勉は想像を超えた天才で、それにひきかえ飛鳥昭雄はかなりみっともない対応をとったということになるらしい。どういう意味かは本書を読もう。前作の読者は迷わず買いだ。

 また本書には、1999年にマスコミがどのようにノストラダムスを扱ったかがまとめられている。こうやって並べられてみると、さすが生き馬の目を抜くというべきか資本主義の論理というべきか、CM業界がノストラダムスを徹底して笑い飛ばしていたことがわかって興味深い。

 ちなみに、第三章が従来の『トンデモ本の世界』スタイルでノストラダムス本を切り捨てていく部分だが、すでに前作もあることだし、なにせ相手が同工異曲の集まりだけに、あまり新味はない。本書の主要な部分とも言えないだろう。ただし、その後に続く『ノストラダムス本落穂拾い』および『おすすめノストラダムス本』のコーナーと合わせて、ノストラダムス本を徹底的に網羅したという意味で資料的価値は高い。

 実は本書で一番面白いのは、そういった“他人のこと”よりも、前作出版以後1999年7月までに山本氏自身が体験した事実を綴る『山本弘のノストラダムス日記』だ。脅迫状が届いたり、取材されてもいないテレビに出演したりと、さすが“トンデモノストラダムス”の第一人者の生活はスリリング。悪しき相対主義に毒されて道理の“ど”の字もわからない『毎日中学生新聞』記者との消耗する会話には、読んでる僕も怒り爆発だ。こんなやつは中学生に何を言う資格もない。

 なお、最終章で予言の“まともな”解釈が紹介されているが、更に興味がある向きは、本書でも絶賛されている『ノストラダムス予言集』(P.ブランダムール校訂、高田勇・伊藤進編訳、岩波書店)をご一読あれ。目から鱗が落ちること請け合い。

 しかし、なんだね。みんながみんな1999年7月という同じ終末の時を夢想できた楽しい日々は、もう帰ってはこないんだね。そう思うと少々さびしい。終末は来なかったけれど、明らかにひとつの時代が終わったのだ。その意味で、予言は成就したのかもしれない。(菊池誠)

【2001/4】

●わたしたちはなぜ科学にだまされるのか

 ロバート・L・パーク、栗木さつき訳

 主婦の友社

 わたしたちはなぜ科学にだまされるのか  いや、なんというか、この邦題はどういうセンスでつけたかな。これでは“反科学書”みたいでなんだかなあ。もちろん、これはそんな本ではない。なにしろ、著者は物理学者だし、副題も“インチキ!ブードゥー・サイエンス”(実は、このヴードゥー・サイエンスというのが原題)なのだから。

 では、本書がターゲットとするヴードゥー・サイエンスとはなにか。それは、あたかも“科学”であるかのように装いながら、その実は科学とはほど遠いもの。つまり、平たくいえばインチキ科学・ニセ科学のことだ。日本でもたとえば“クラスターの小さい(怪しい)水”や“波動”がらみの話など、相変わらずニセ科学は世間に溢れている。それらはあからさまなオカルトや反科学と違って、素人目には“科学”と区別がつきにくい分、より悪質である。つまりは、そういうものがヴードゥー・サイエンスなのだ。

 本書ではヴードゥー・サイエンスをさらに「病的科学」「ジャンク科学」「ニセ科学」の三つに分類している。中ではふたつめのジャンク科学が我々には少々わかりにくいかもしれない。“司法関係者の科学の知識が浅いことにつけこみ、集団訴訟で企業を食いものにする”ものだそうで、今のところは、陪審員制度を持つ訴訟社会アメリカならではのものか。

 実例として取り上げられているものは多岐にわたる。常温核融合騒ぎをはじめとして永久機関やフリーエネルギー関連、ホメオパシーなどヴードゥー・サイエンスに基づく“ヴードゥー”な医薬品(なんとドイツではホメオパシーが公認されているらしい)、それにUFOなどといった明かなニセ科学・病的科学もあれば、電磁波問題のようにもしかしたらあまりヴードゥーと認識されていないかもしれない話題もあるし、なんと宇宙開発も含まれている。

 高圧線の電磁波問題については日本でも「週刊金曜日」あたりが煽ったりしていたのだが、多くのデータが出た今となってはヴードゥー扱いでいいだろう。一方、宇宙開発がヴードゥー・サイエンスに分類されていると聞けば、違和感をおぼえる読者も多いかもしれない。そういうかたも、慌てずに一読してみてほしい。著者がヴードゥー扱いしているのは、現在の宇宙開発のありかたなのである。そういう意味では、個人的には熱核融合も充分にヴードゥーの域に達していると思うが、それはそれ。

 さて、ヴードゥー・サイエンスを広めているのは、必ずしもその当事者・発明者だけとは限らない。本書では、マスコミがヴードゥー・サイエンスに手を貸した実例がいくつか挙げられている。この手のパターンは、日本でもバラエティ番組でおなじみ。あるいは、科学に暗い政治家が永久機関や常温核融合を推進しようとした話も紹介されている。これもアメリカのことと笑ってばかりはいられなくて、つい最近、公明党議員団が“磁力発電”を視察したなんていう情けない話題がウェブ上に流れていたので目にしたかたも多いかと思う。結局、ヴードゥー・サイエンスに国境はないってことだ。

 本書は読みやすいし、大変面白い。手にとりさえすれば、すらすら読めると思う。この手の本を既に何冊か読んでいるかたにもお薦めできる。問題は、どうすればこういう本を“ヴードゥー・サイエンス信者”が手にとってくれるかだが、そこが難しいんだよな。著者も言うとおり、ブードゥー・サイエンスがはびこる背景には、人間の脳が「信じたがる脳」として進化したということがあるのだろう。そうであるかぎりブードゥー・サイエンスは尽きることがないのかもしれない。それでも、人間はものごとを“理解”する能力をもっているわけで、それを信じて、とりあえずは科学者がヴードゥー・サイエンスを地道に批判していくしかないのだろう。嗚呼、道は長い。(菊池誠)

【2001/4】

●虹の解体

 リチャード・ドーキンス、福岡伸一訳

 早川書房

 タイトルはキーツ(おお、ハイペリオン)に由来するのだという。キーツは、ニュートンの光学研究が、詩的な対象としての虹を単なる物理現象に解体してしまった、という意味のことを書いたらしい。キーツに限らず、多くの詩人達が科学への嫌悪を表明していた、という話から本書ははじまる。それに対して、科学はそのままで充分に詩的なのだ、とドーキンスは本書で主張する。虹を解体した結果、我々はどれほどの驚異を目にすることができたか、本書の三分の一程度はそういう意味の科学論に当てられている。その後、途中にかなり激烈なスティーヴン・ジェイ・グールド批判を挟んで、後半三分の一程度はドーキンス自身の進化観が語られるという構成。一冊の本としては少々統一感にかけるきらいがあるものの、ドーキンスの思想を知るにはなかなかよい本。

 目を惹くのは、やはりグールドの扱いだろう。以前とりあげたデネットの『ダーウィンの危険な思想』に続いて、本書でもグールドが名指しされているわけだが、もちろんそれだけグールドの影響力が大きいということでもある。本書でドーキンスは、グールドが科学を“偽りの詩”で語ると批判する。いや、たしかにグールドの本って面白過ぎるくらい面白いんだよね。

 一方、ドーキンス自身、自分の作り出した「利己的遺伝子」という言葉が悪い意味で“詩的”に使われてしまう例を多数見てきて(さすがに竹内久美子を読んではいないだろうけど)、かなり嫌気がさしているようで、本書でもかなりのスペースを割いて自分の真意を説明している。しかし、これはある意味で自業自得でもあるのだ。「利己的遺伝子」の概念がこれほど広く認知されるようになったのも、やはり「利己的」という言葉の“詩的な響き”故だったはずだから。ドーキンスが繰り返し説明しなおさなくてはならないのは、ある種の代償なのだ。詩と科学の関係はなかなか難しい。

 さて、科学を理解しないのは詩人だけではない。法律家たちが科学を理解しないために起きる理不尽なできごとにも本書の一章が割かれている。また、超常現象にも二章ばかりが当てられており、そこでは特に“偶然の一致”に由来する神秘現象を説明するためにペトワック(PETWHAC)という言葉を提案しているのが面白い。これは“本来偶然にすぎないのに、なにか関係があるかのように見える事象の集合”の頭文字をとったもの。なかなか便利な言葉ので(響きも間抜けでよい)、頭にいれておこうと思う。

 後半部の進化論に関わる部分は、そこだけ独立で読むこともできる。しかし、読めば読むほどよくわからなくなってきて、グールドは判りやすいよなあ、と思ったりもするのだが、それではいかんのだろうね。

 ところで、第二章には“良質なSF”と“悪質なSF”についての議論が含まれている。ここの記述には反感をおぼえる読者も多いだろうし、実際僕もそうだったのだが、まあそこはそれ、大目に見てやってくれ。また、本書ではほんの2、3ページの記述しかないが(といっても、軽く扱われているわけではない)、悪質な“フェミニスト科学”については考えるべきことが多い。誰かまとまった批判を書くべきやね。(菊池誠)

【2001/8】

●新・トンデモ超常現象56の真相

皆神龍太郎、志水一夫、加門正一

太田出版

●オカルト探偵ニッケル氏の不思議事件簿  

ジョー・ニッケル、ジョン・フィッシャー

東京書籍

『新・トンデモ超常現象56の真相』は、タイトルといい中身といい『トンデモ超常現象99の真相』(洋泉社)の続編というべきもので、“と学会関連本”と言ってしまっていいのだとは思うけれど、“と学会”の名前で出ているわけではない。これは皆神龍太郎氏の監修で出版されている“スケプティック・ライブラリー”の一冊なのだった。このシリーズも気がつけば既に六冊目。表紙に描かれた気が抜けるようなイラストの数々が実にナイスだ。SFオンラインの読者なら、とりあえず“買い”だね。ビリーバーなお友達にも紹介してあげよう。

 さて、本書は、巷でよく知られた超常現象や怪しい伝説の数々をとりあげて、それぞれ“伝説”を紹介した後にその“真相”を説明するという形式で書かれたもの。そういう話もあったあった、とまずは記憶を掘り起こしてから、真相を読んで脱力、というのが、なんと56回も続くのだ。いや、さすがに56という数は半端じゃなくて(前作はこれに輪をかけて多い99だったけど)、読み読みごたえがある。56回も脱力すれば、肩凝りも治っちゃうぞ。これだけの数の伝説を揃えて調査するというのは、ただごとではない作業量なわけで、まさに労作。“続編”とはいっても、大ネタが揃っているので、その点でも安心して大丈夫だ。青森県にあるというキリストの墓、ノアの箱舟、超能力者クロワゼット、ガンツフェルト実験、ミステリー・サークル、清家理論、ヒル夫妻事件、エリア51、懐かしのオリバー君、学習雑誌の定番記事だったメアリ・セレスト号・・・・、ほらね、知ってるネタばかりでしょ。カルロス・カスタネダなんていうニューエイジのヒーローもその情けない正体を暴かれているぞ。

 その中でも、本書がメジャー初登場(でいいのかな?)の加門氏の記事が光る。なにしろ、ホプキンスビルのUFO事件、富加町のポルターガイスト事件、マーファの怪光、とこれが軒並み現地調査なのだ。現場は見に行く、関係者にはインタビューする、と大活躍。また、“うつろ舟”の伝説にまつわる資料調査も実に力のはいったもの。扱ったネタの数こそ少ないものの、どちらかというと文献調査中心の記事の中に徹底的に現場志向の加門氏の記事が効果的に配されて、本全体を引き締めている。

 ネタ以外の部分では、まえがきで皆神氏が、そして巻末解説で山本弘氏が、異口同音に日本のテレビ局が作る“オカルト番組”を批判しているのが目を惹く。だってさ、とっくに真相が明らかになってるはずのネタをさも“未解明の怪奇現象”であるかのように紹介する番組って、やっぱり視聴者をナメ過ぎだもの。そりゃ、怒られても当然だ。僕たちが見たいのはそんな嘘っぱちの“オカルト番組”じゃなくて、誰も真相を解き明かしていない本当の謎を紹介してくれる番組だ。テレビの人は本書を読んで反省するように。

 ところで、この『新・トンデモ超常現象56の真相』の中で何度か参照されている"Secrets of the Supernatural"(Joe Nickell & John Fischer)が、実はこれより1ヶ月ばかり早く邦訳出版されている。別に重大な傷というわけではないけど、ネタが重なって、ちょっとばかり間の抜けたことになってしまったのは残念。

 というわけで、それが『オカルト探偵ニッケル氏の不思議事件簿』。スケプティック関連では重要な本だと思うので、上記の事情は気にせずに、邦訳出版を素直に喜ぼう。

 こちらは多くの事件を網羅的に扱うのではなく、10ばかりの話題に絞って、それに関する調査・謎解きの過程を詳細に書いたもの。必ずしも大ネタ揃いとは言えないかわり、結論だけではなくて懐疑思考のありかたそのものを読むことができる。その意味で、上の『新・トンデモ』とはだいぶ趣きが異なる。前者を入門的とすれば、こちらはどちらかというとコアなファン向けという感じかな。深く考えたい向きには、こちらのほうがいいだろう。

 ただし、翻訳はなんだかとても変。誤訳ではないのだろうけど、文章がなんだか変だ。どう変なのかよくわからないのだけど、少なくとも読みやすくはない。まあ、コアなファンはどのみち読むしかないわけよね。(菊池誠)


2010/05/12 4/30 学術会議「IPCC問題の検証と今後の科学の課題」

カテゴリー: ニセ科学

掲題のシンポジウムの録音を置きます

前半(講演)

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/temp/100430_1.mp3

開会の辞 岩澤 康裕 (日本学術会議第三部 部長)

挨拶 金澤 一郎 (日本学術会議会長)

「IPCC の意義と課題」 中島 映至 (東京大学 大気海洋研究所 教授)

「氷河問題とIPCC 今日の課題」 西岡 秀三 (国立環境研究所 特別客員研究員)

「科学問題としての温暖化をめぐる視点」 草野 完也 (名古屋大学 太陽地球環境研究所 教授)

「IPCC と科学論的視点」米本 昌平 (東京大学先端科学研究センター 特任教授)

後半(パネルディスカッション)

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/temp/100430_2.mp3

「IPCC 問題が問いかけるもの:科学的作業、情報・倫理、科学者の行動規範」

(司会:日本学術会議第三部 部長 電気通信大学 教授 岩澤 康裕)

パネリスト

中島 映至 (東京大学 大気海洋研究所 教授、第三部会員)

江守 正多 (国立環境研究所 温暖化リスク評価研究室長)

草野 完也 (名古屋大学 太陽地球環境研究所 教授)

安成 哲三 (名古屋大学 地球水循環研究センター 教授、第三部会員)

伊藤 公紀 (横浜国立大学 大学院工学研究院 教授)

米本 昌平 (東京大学先端科学研究センター 特任教授)

横山広美(東京大学大学院理学系研究科准教授)

それぞれ120MB程度のMP3です

公開シンポジウムなので、たぶん問題はないでしょう

一部ではこのシンポジウムで何かとんでもない不正が暴露されたかのように言う人もいるようですが、(ヒマラヤ氷河問題など、IPCCのルールが守られなかったという意味で不正と言ってもいいことではあるのですが)何かが新たに明らかになったわけではありません。

基本的には、江守さんが一連の日経エコロミーの記事で既にまとめておられることが確認されただけです。

http://eco.nikkei.co.jp/column/emori_seita/article.aspx?id=MMECza000025012010

シミュレーションの解釈をめぐる問題では、草野さんが「現象が複雑すぎて、信頼性の高いシミュレーションはできない」、江守さんが「現象は複雑だが、平均気温が上昇するかどうかくらいの長期的傾向はかなりの確信をもって言える」という感じかと思います。どちらも理解できるのですが、議論の的になったのは「アトラクターの性質」の問題ですよね。草野さんは解空間の構造と言っておられたから、おふたりのあいだでは問題がどこにあるかは理解されていたのだと思いますが、一般聴衆の多くはアトラクターの問題ではなくて個別の軌道の問題と捉えてしまったのではないかと思います。

(ここではアトラクターという言葉をそれほど正しくは使っていません。長期的傾向と短期変動の違い、と書けばいいだけなんですが、それではいまいち言い足りないので)

会場からの質問者の中に、その意味で長期と短期の区別がついていないのに、詰問調で迫るかたがおられて、江守さんが匙を投げてしまいましたが、ああいう詰問調は事業仕分けの真似なんでしょうか。こういう場面では、詰問調で迫ろうがおだやかに質問しようが、出てくる答は同じです。じっくり説明を聞く気がないなら、質問しないほうが他の人のためです。

あとでさらに追記すると思います