練習問題としての血液型性格判断 ●はじめに  みなさんは血液型性格判断がお好きだろうか。血液型の話題はテレビや雑誌でが頻繁にとりあげられるから、好きか嫌いか、あるいは、信じるか信じないかは別として、A型の人はまじめで几帳面な性格だとかAB型はどうだとか、そういう血液型によって性格が決まるという話自体は日本人にとって「常識」といってもいいだろう。  本書を手にとるようなみなさんは、その手の話に懐疑的なかたが大半なのかもしれないが、血液型と性格の関連は科学的に証明されていないというと、意外だという反応をされることがよくあるので、一般には、どちらかといえば今でも信じている人が多いのではないかと思う。  ところが、実はこれは世界的に見ればむしろ非常識な話で、どうやら、世界中で日本人ほど他人の血液型を気にする国民はいないということになっているようだ。松坂投手がレッドソックスに入団した際に、アメリカの新聞が日本人の血液型信仰を報じていたのも記憶に新しい。  そもそも欧米人には自分の血液型も知らない人が多いといわれる。まして、他人の血液型なんて、知ってどうする、というわけだ。来日した外国の歌手や俳優がインタビューで血液型を訊かれて驚いていたなどという話もときおり雑誌などで目にする。それはそうだろう。血液型はプライベートな情報なのだから、本来なら初対面の人に尋ねるべきものではない。  もっとも、最近は日本でのブームがおとなりの韓国にも飛び火し、かなり激しい「B型バッシング」があったとも聞く。この「バッシング」は重要な問題なので、おぼえておきたい。  血液型を知らないといざというときに困るだろうという意見もときおり目にするが、それは誤解で、実際には自分の血液型を知らなくても困る場面はないといっていい。輸血のときは、必ず調べるから心配にはおよばない。そもそも自己申告の血液型などあてにならないので、それを鵜呑みにして輸血する医者はいないはずだ。  血液型を知らなくて困るとしたら、せいぜい合コンで血液型の話題になったときに、驚かれるくらいではないだろうか。もしかしたら、自分の血液型も知らないなんてAB型に決まってる、などと言われてしまうのかもしれないが。  とにかく、日本の社会では血液型性格判断が一定の地位を確立していることはまちがいない。飲み屋での話題としても定番で、大学生の合コンともなると、仕切り方だのお酒の注ぎ方だのを見ては、君はO型だねとかいかにもA型っぽいと思ったとか、当然のようにそんな会話が交わされるようだ。ようだ、というのは、残念ながら僕は合コンの現場に居合わせたことはないからなのだが。  血液型の話は会話のきっかけになる、ともよく言われる。しかし、せっかくの合コンで血液型と天気の話題しかきっかけがないのだとしたら、自分が話題にとぼしい人間だと宣言しているようなものだ。ちなみに、僕はたまに女子大でニセ科学の話をする機会があると、合コンでまっさきに血液型の話題を持ち出すような男はどうせつまらないやつだから相手にするな、と言うことにしている。会話のきっかけなら、もっと気の利いた話題を用意しておくのが正しい。  さて、ここで僕の結論を言ってしまうなら、血液型性格判断は「ニセ科学」だ。では、なぜ「ニセ」なのだろうか。実のところ、ニセ科学という言葉を使っているかどうかはさておき、血液型性格判断の「ニセ科学性」についてはとっくに語り尽くされているといっていい。血液型性格判断はたぶん日本では最もよく知られたある意味由緒正しいニセ科学と言えるだろう。この問題をきちんと議論してある良書もいくつか出ているので、詳しくはそちらを参照していただくとして、ここでは練習問題という位置づけでとりあげることにしよう。  これがなぜ練習問題なのかといえば、まず第一にどういうものなのかを説明する必要がほとんどない。次に、実は科学的には根拠がないと言われていることを知っている人も多く、それにもかかわらず「そうは言っても、自分は血液型と性格は関係すると思う」と言い出す人もよく見かけることも挙げておきたい。理系研究者の中にも、この問題になると論理も理性も失う人は少なくない。そのくらい、この問題は広まっていて、かつ根が深い。 ●血液型性格判断の歴史  ここで血液型性格判断の歴史を振り返っておこう。  血液型と性格が関係するという説は20世紀にはいって初めて登場する。それもそのはず、そもそも血液型というもの自体がラントシュタイナーによって発見されたのが1901年なのだから、血液型と性格の関係が議論になるとしてから、それ以後でなくてはならない。そう考えると、日本での血液型性格関連説の歴史は意外に古く、むしろ驚くほど早くから議論されていたというべきかもしれない。  よく知られているのは、教育学者だった古川竹二が心理学会で発表した学説で、これは1927年まで遡る。さらにそれ以前にも、医師だった原来複が血液型と性格の関連について発表している。  このあたりの経緯については、松田薫の労作『「血液型と性格」の社会史』に詳しい。それによれば、古川学説は大きな反響を呼び、他の学者たちによる検証と論争がおこなわれただけでなく、新聞などを通じて一般にも広く知られるようになり、一種の「血液型ブーム」が起きたようだ。軍隊での研究なども行われている。  しかし、結局、古川が言うような血液型と性格との関連は否定され、学説としてはすたれてしまった。では、学術的に否定されたはずのものが、なぜ今でも広く信じられているのだろう。  実は、古川学説はいったん忘れ去られてしまった。現在につながる血液型性格判断はいわば再発見されたもので、1971年に出版された能見正比古の著書『血液型でわかる相性』に始まるとされている。著者である能見は今でいうライターということになるのだろうか、心理学者ではないし、知る限り血液型に関する学術論文を書いたことがあるわけでもないようだ。  その意味で、今現在広く信じられている血液型性格判断は、原や古川とほとんど関係がないといってもいいだろう。ただし、内容的には焼き直しにすぎず、じっさい、心理学者の大村政夫は能見説を古川説の剽窃であると言っている(check)。また、能見が最初に書いた『血液型でわかる相性』にも姉のアイデア(check)と書かれており、能見自身、血液型と性格の関連というアイデアそのものがオリジナルだとは主張していないようだ。  能見の説は初めから一般向け新書の形で世に現れた。その意味で、もともと「学説」ではなかった。実際、学術的な裏づけもないものと思ってかまわないが、彼が書いたいくつもの血液型に関する本は広く受け入れられ、能見の死後もその跡を継いだ息子の俊賢氏の手によってたくさんの本が出版され続けている。  それらはやはり新書や文庫といった一般書で、どれをとっても学術書ではない。むしろ学術書じゃないからこそ、多くの人に読まれてきたともいえる。こうして、血液型性格判断は日本の、そして主として日本だけの常識となっていった。俊賢氏は現在も「血液型業界」の大物として、NPO法人「血液型人間科学研究センター」を運営し、出版やテレビなどを通じて血液型性格判断の普及に努めている。  もちろん、売れるとなれば、二匹目・三匹目のどじょうを狙う人が出てくるのは世の習い。能見流とは別の流儀で書かれた血液型性格判断の本も数多く出版されている。ただし、古川以降、血液型と性格が関連するという漠然とした「常識」は社会に残っていたと思われるので、能見の二番煎じでないものもあったかもしれない。鈴木芳正などはそうだろうか。  そして、恐らく血液型性格判断の普及に近年もっとも貢献したのはテレビといっていいだろう。「発掘 あるある大辞典」(check)などの番組が、血液型性格判断をいわば番組の看板企画として繰り返しとりあげた結果、血液型性格判断はお茶の間の、そして世間の定番の話題になった。 ●現在の理解  というわけで、流儀もひとつではないし、それどころか、本家の能見流ですら、本を読んでみると、かならずしも終始一貫同じ主張をしてきたわけではないように思える。しかし、ここではそのような詳細は気にしないことにしよう。A型はまじめで几帳面、B型は・・といった「日本人の常識」程度の理解で充分であり、世間で「科学的事実」と信じられているのは、その程度の内容だろう。血液型性格判断を信じる人の中でも「能見の説はこれこれ」ときちんと説明できる人はそれほど多くはないのではなかろうか。  では、現在の血液型性格判断には、どの程度の信憑性があると考えられているのだろうか。人の性格の問題を学問的に扱う分野は性格心理学とよばれている。心理学者は性格についてのプロフェッショナルなのだから、現状については彼らにきいてみるのが一番たしかだろう。  むろん、心理学者も血液型性格判断の流行をぼうっと見ていたわけではない。能見説以降も血液型と性格の関連についての学問的研究はされており、性格心理学の問題としてはとっくの昔に解決している。  結論としては、「血液型と性格が関連するという積極的な証拠はない」ということになる。「積極的な証拠はない」とは微妙な書き方でもうしわけないのだが、それがなにを意味するかについてはおいおい考えるとして、ごく簡単に言ってしまうなら、人の血液型を聞いて性格を言い当てることはできないし、逆に行動を見て血液型を言い当てることもできない。  つまり、古川学説が否定されたように、現代版の血液型性格関連説もやはり否定されたわけだ。もちろん、コンパの席での短い会話やしぐさから、血液型を当てることはできない。  実はここまで僕は血液型性格判断という言葉と血液型性格関連という言葉を説明もなしに微妙に使い分けてきた。また、性格と気質という言葉についても曖昧に使ってきた。  しかし、能見は著書の中で「性格ではなく気質」であると強調している(check)。どうやら気質というものは血液型によって比較的強く影響されるのに対して、性格にはさまざまな個人差が生じてよいということらしい。しかし、そうだとすると、気質の違いをどのようにして調べたのだろうか。  能見自身は、独自にデータを収集した上で結論をみちびき出しているので、科学的に研究しようという志はあったのだろう。少なくとも、意図的に嘘をつこうとしたわけでも、何の根拠もなく単なる思いつきだけで書いたつもりだったわけでもなさそうだ。ところが、残念ながら、その研究は実際には科学的な手続きを踏んだものではなく、したがって科学として通用するものではなかった。  たとえば、能見は自分の本の読者にアンケートを取って、そのデータを統計学の方法を使って解析している。しかし、多くの心理学者が指摘しているとおり、これは血液型性格判断の成否を検討するためのデータとしては使えない。能見ファンは血液型と性格との関係に思い当たるふしのある人が多いだろうから、その意味で最初から傾向が偏っている。そのような偏りのある どれほどたくさんのアンケートをとったとしても、偏った結果しか得られない。  統計学の方法を使うのは当然だが、やみくもに使っても意味のある結論は出せない。統計学を使うことがだいじなのではなく、正しく使うことがだいじなのである。統計学の誤用はニセ科学の問題でよく出会う。  もっとも、これだけなら、ニセ科学というよりは「大人の自由研究」とでも呼べるものだったかのかもしれない。  ところが、話はこれだけでは終わらない。血液型性格判断の流行を受けて、性格心理学の分野でもあらためていくつもの研究が行なわれ、「血液型と性格のあいだに関連があるとはいえない」という結論が出てしまっている。この意味で、血液型性格判断はとっくに否定されていると言ってよい。  ところが、それにもかかわらず、いまだに「血液型と性格は関連がある」という前提で書かれた本が次々に出版されているし、テレビでもいまだにとりあげられている。これはもう、「ニセ科学」と呼んでいいだろう。ただし、今現在血液型と性格の関連を研究している研究者がいたとしても、それをすべてニセ科学とよんでいいわけでもない。この問題は、あとでまた考えよう。 ●なぜ、当たる気がするのか  2006年にインターネットで公開された血液型心理テストのサイトが、驚くほどよく当たるとして話題になった。のちにこれは作家、松岡圭祐の新作長編『ブラッドタイプ』の宣伝であり、血液型に基づく性格判断の結果とされた文章も実は血液型と関係なく出力されていることが明かされた。では、なぜ「驚くほどよく当たる」と評判になったのだろうか。松岡氏ののサイトではこれを「バーナム効果」として説明した。 [バーナム効果の簡単な説明]  結局、ある程度誰にでもあてはまりそうなことを並べておけば、受け取る側が勝手に「思い当たるふし」を見つけて、当たったと思い込んでくれるというわけだ。この「バーナム効果」は占いなどでも利用される。  もっとも、だから血液型性格判断はバーナム効果ですべて説明できる、と言い切ってしまうわけにはいかない。あくまでも、このサイトはバーナム効果を利用したということである。実際、このサイトが出す結果の文章はどれもかなり長く、さまざまなことがこと細かに書かれており、普通我々が血液型性格判断という言葉から想像するものとはずいぶん違っているように思える。  血液型性格判断のうち、自分に当てはまるかどうかについてはバーナム効果で説明できる部分も多そうだが、他人の性格についてまでそうだとは言えない。むしろ、別の認知バイアスで説明すべき面のほうが大きいだろう。たとえば、「○型はこういう性格」という思い込みで、当てはまりそうな人を探す、という面が大きいと思う。なお、このような「○型はこういう性格」という思い込みは「ステレオタイプ」と呼ばれ、社会心理学の研究対象になっている。 ○いくつかの認知バイアスの話(簡単に) ●なぜ信じられるのか  ここで、なぜ血液型性格判断がこれほどまで広く信じられているのか、考えておこう。もちろん、これには多くの理由が絡み合っているはずだし、唯一の正解があるわけでもないだろう。また、ひとことで「信じる」と言っても、人によってそれぞれに信じ方の違いもあるだろう。以下に要因の候補をふたつ挙げておく。これはいずれも僕自身の仮説であって、なんらかの方法で確認したわけではないが、もっともらしいのではないかと思う (1)4分類という思い切った割り切り:  性格というのはそれなりに「複雑」だと思われているだろうから、これが仮に2分類だったなら、恐らくこれほど多くの人には受け入れられなかったに違いない。かといって、10通りにも分類されてしまっては、多すぎておぼえる気になれない。  おぼえやすいというのは、実はかなり重要な要素で、血液型性格判断が学校から飲み屋まであらゆる状況で話題にされるのは、参考文献が手もとになくても議論できるからだ。ABO式血液型の4分類という数は、性格の分類としても適当にもっともらしく、しかも使いやすいものなのではないだろうか。  たとえば、かつて人気になった『動物占い』はさまざまな動物にあてはめるものだが、あてはめる種類が多すぎて、よほど努力をしなけれはおぼえきれない。  もちろん、4分類では単純すぎると考える人はいて、性格を非常に多くの種類に分類してみせた血液型性格判断本も出版されている。しかし、これではせっかくABO式血液型を持ち出してきた意味がなくなってしまうので、主流の地位を占めるのは難しそうだ。 (2)遺伝についての知識:  血液型は非常に簡単なメンデル型の遺伝法則に従う。たとえば、A型同士の両親からは、A型かO型のどちらかの子供しか生まれない。このような血液型の遺伝法則はよく知られていて、むしろ遺伝法則といえば血液型をまっさきに思い浮かべる人がおおいのではないかと思う。  一方、「あの親にして、この子あり」などといわれるくらいなので、親子の性格は似るものだなあとしみじみ感じる経験は誰もが持っているに違いない。もちろん、似ていない親子だっていくらでも見つけられるし、仮に似ているとしても、教育や家庭環境によって決まる部分が大きいはずだ。それでも、性格のかなりの部分が遺伝的に決まっていると信じている人は多そうだ。  いかにも遺伝しそうな「性格」が、もっともよく知られた遺伝現象である「血液型」と関連すると主張されれば、多くの人が、なるほどそれは「科学的」でもっともらしい話だと納得するのも不思議ではない。ここでのポイントは、遺伝法則の知識を通して、「血液型性格判断」が科学的事実として受け入れられるところにある。 ●血液型と差別  血液型性格判断は単なる遊びを超えて、これが実害をもたらしている。たとえば、ある企業がインターネット上に公開している就職活動のためのエントリーシートには、氏名・住所・電話番号・電子メール・性別に続いて「血液型」の記入が求められている。ほかの項目は出身大学や帰省先、職種の希望など常識的なものばかりであるから、血液型の項目は目を引く。もちろん、なぜそれが必要とされているのかはわからないが、採用上なんらかの参考にしているのではという疑念はわく。  じっさい、ブログで体験談を募ったところ、就職の面接で血液型を聞かれたり、血液型に関して不快な思いをさせられたという体験がいくつか寄せられた。例外的なのか全国的に広く行われているのかまではわからないが、血液型による就職差別が行われていることはまちがいないようだ。  また、以前、電機メーカーの@(check)がAB型の社員だけを集めて新製品開発プロジェクトチームを作ったという実例がある。特に成果は出ないままチームは解散したようだ。能見の著書には、幼稚園での血液型別クラス編成の例が書かれている。今でもそれをやっている幼稚園はあるかもしれない。  要するに、血液型が就職や配属面で考慮されていると思われる事例は実際にある。これは無論、差別である。  特にB型は「嫌な性格」とされて、差別を受ける傾向があるようだ。これは日本に限らない。お隣の韓国でも激しいB型バッシングがあったと聞く。日本で原や古川の血液型性格関連説が提唱される前から、ヨーロッパではB型は動物的な血液型(check 松田の著書)という議論があったので、そういう歴史をいまだにひきずっているとも考えられる。しかし、それが受け入れられて日本でB型が差別の対象にされる理由は、おそらくB型が5人にひとりの少数派だからだろう。逆に、人口の4割を占めるA型が差別対象とはならないのは明らかだと思う。もちろん、さらに少ないAB型が差別の対象になってもいいはずだが、10人にひとり以下というのは少なすぎるのかもしれないし、あるいはたまたまかもしれない。 もちろん、血液型による差別が許されないのは、それが自分の努力や技倆では変えられないものだからだ。その意味で、出身地による差別や性別による差別と同様、社会的に認められないし、認めるべきでもない。これ自体は血液型性格判断が正しいか正しくないかとはいちおう別の問題だということは確認しておこう。仮に血液型性格判断が正しかったとしても、血液型で就職差別をしてもいいということにはならない。  では、血液型性格判断も単なる遊びならたいした問題ではないのだろうか。血液型性格判断がどうしてもB型差別(だけではない)のような差別的な面をもつことは否定できない。遊びだからといっても、話題にする以上は、それを避けるのは難しいのではないだろうか。もちろん、完全に切り分けができて、遊びは遊び、差別には与しないという態度を貫けるのであれば、いいのかもしれない。しかし、その話題を嫌がる相手がいたら、どうするか。  もし、差別的な発言をしてから、その血液型の人がその場にいるのを知って、「遊びなんだからかたいことは言うな」などと口にするくらいなら、そんな話題ははじめからやめておくべきだろう。血液型性格判断は差別を助長するという点をくれぐれも忘れるべきでない。 ●マスコミの問題  科学的には否定されているにもかかわらず、血液型性格判断がいまだに広く浸透している理由のひとつとして、マスコミの問題が挙げられる。  雑誌がちょっとした特集を組む程度のことはそれほど珍しくない。2008年と2009年の8月には有名な女性雑誌ananがかなり大きな特集を組んだ。  もちろん、もっとも影響が大きいのはテレビである。血液型を積極的にとりあげ続けた番組としては、「あるある大辞典」があげられる(check)。  あとで詳しく議論するが、テレビ番組の血液型特集では、専門家と称する人たちがあたかも根拠がはっきりした話であるかのように主張するだけでなく、それを裏付けるための「実験」を行ってみせることも多い。テレビで行われる実験は、実際には科学的な実験の体をなしているとはとてもいえないので、それでなにかを証明したことにはならない。せいぜい、「やってみたら、こうなりました」に過ぎないのだが、実験したというだけで、視聴者には科学的に見えてしまうようだ。  こういった血液型番組の氾濫には、テレビ界自身も問題を感じたらしく、放送番組向上機構(BPO)の「放送と青少年に関する委員会」がが2004年12月に『「血液型を扱う番組」に対する要望』にを出している。ちなみにBPOとは、民放各社が共同で設立した組織である。  少し長いが、引用しておこう (以下、引用) 「血液型を扱う番組」が相次ぎ放送されている。それらの番組はいずれも、血液型と本人の性格や病気などとの関係があたかも実証済みであるかのごとく取り上げている。放送と青少年に関する委員会(以下、青少年委員会)にも、この種の番組に対する批判的意見および番組がもたらす深刻な状況が多数寄せられている。それらの意見に共通するのは、「血液型と性格は本来、関係がないにもかかわらず、番組の中であたかもこの関係に科学的根拠があるかのように装うのはおかしい」というものである。意見の中には、「これまで娯楽番組として見過ごしてきたが、最近の血液型番組はますますエスカレートしており、学校や就職で血液型による差別意識が生じている」と指摘するものもあった。放送局が血液型をテーマとした番組を作る背景には、血液型に対する一種の固定観念とでもいうべき考え方や見方が広く流布していることがあげられる。  しかし、血液型をめぐるこれらの「考え方や見方」を支える根拠は証明されておらず、本人の意思ではどうしようもない血液型で人を分類、価値づけするような考え方は社会的差別に通じる危険がある。血液型判断に対し、大人は“遊び”と一笑に付すこともできるが、判断能力に長けていない子どもたちの間では必ずしもそういうわけにはいかない。こうした番組に接した子どもたちが、血液型は性格を規定するという固定観念を持ってしまうおそれがある。  青少年委員会では、本年6月以降、番組内での“非科学的事柄の扱い”全般について検討してきたが、ことに夏以降、血液型による性格分類などを扱った番組に対する視聴者意見が多く寄せられるようになった。そこで委員会では集中的に「血液型を扱う番組」を取り上げ、いくつかの番組については放送局の見解を求め、公表してきた。その 過程で、放送局は「○○と言われています」「個人差があります」「血液型ですべてが決まるわけではありません」「血液型による偏見や相性の決めつけはやめましょう」など、注意を喚起するテロップを流すようになった。しかし、これは弁解の域を出ず、血液型が個々人の特徴を規定するメッセージとして理解されやすい実態は否定できない。  民放連は、放送基準の「第8章 表現上の配慮」54条で、次のように定めている。 (54)占い、運勢判断およびこれに類するものは、断定したり、無理に信じさせたりするような取り扱いはしない。 〔解説〕 現代人の良識から見て非科学的な迷信や、これに類する人相、手相、骨相、印相、家相、墓相、風水、運命・運勢鑑定、霊感、霊能等を取り上げる場合は、これを肯定的に取り扱わない。  これらを踏まえ、青少年委員会としては、「血液型を扱う番組」の現状は、この放送基準に抵触するおそれがあると判断する。  青少年委員会は、放送各局に対し、自局の番組基準を遵守し、血液型によって人間の性格が規定されるという見方を助長することのないよう要望する。  同時に、放送各局は、視聴者から寄せられた意見に真摯に対応し、占い番組や霊感・霊能番組などの非科学的内容の取り扱いについて、青少年への配慮を一段と強められるよう要請したい (引用終わり)  これを読んであきらかなように、血液型と性格の関係は科学的に証明されておらず、しかも差別を招きかねないと明言されている。これが青少年委員会から要望として出されたのは、要するに、血液型番組は青少年に悪い影響を与える可能性があると考えられているわけだ。  しかも、それまでの血液型番組によく見られた『血液型ですべてが決まるわけではありません』というたぐいのとってつけたようないいわけについても、はっきりと非難している。これは画期的な文書といっていいだろう。  これを受けて、いったんは血液型番組も下火になったように思うが、その後もときおり放送されており、問題の根深さを伺わせる。おそらく、番組制作者自身が信じていることと血液型番組は視聴率がとれると考えているという二点が理由としてあるのだろう。制作者自身が信じているとすれば、本人が信じてもいない番組を作るよりも誠実な態度とも言えるのかもしれないが、その分だけ、問題は厄介である。 ●論理の誤り  血液型に関して「心理学の調査では性格との関連が見つからなくても、実は微かな関係がある可能性は否定できないのではないか」という質問をされることがある。  それはもちろんその通りで、よくよく研究してみると弱い関係があるということになるかもしれない。研究する価値もあるだろう。しかし、一般に言われる血液型性格判断はそのような微妙な関係ではなく、「あなたはA型でしょう」とコンパの席で指摘できるほどにはっきりした関係を主張していることに注意するべきである。したがって、上の質問は血液型性格判断とはなんの関係もない。  この点は一般にあまりよく理解されていないように思うので、ここであらためて考えておこう。血液型性格判断の問題は血液型と性格とのあいだに関係があるかどうかではない。「充分にはっきりとした関係」があるかどうかが問題なのだ。充分にはっきりとした関係というのは、それこそ、あなたは●●型なのでこういう性格ですね、とか、あなたはこういう性格だから●●型ですね、といった判断がかなりの確率で当てられる程度の関係だと思ってもらえばいい。そして、そのような関係がないことは既にはっきりしている。  いっぽう、たとえば、10人や20人を見たのでは血液型による性格の違いがわからなくても、A型とO型をそれぞれ10000人くらい集めてアンケート調査をしたら、なにかしら違いが見つかるということもあるかもしれない。実際、数万人規模の調査を解析すると、わずかながら血液型による違いが見られるという報告もある(check)。  しかし、いったいそれは今問題になっている血液型と性格の関係なのだろうか。実はそのような「弱い関係」があってはならない理由はどこにもないし、事実、心理学者もそのような関係がありえないとまで言っていない。仮にそのような関係があるのだとしても、数100人規模の調査では確認できないだろう。だとすれば、それはたしかに興味深いにしても、実際の生活にはなんの参考にもならないし、役にも立たないはずだ。もちろん、それで目の前の人物の性格を云々することはできない。  もしかすると、それは程度問題に過ぎないのだから本質的ではないという反論もしたくなるかもしれない。そう、まさにそれは程度問題だ。そして、ここで強調したいのは、こと血液型性格判断に関するかぎり、程度問題こそが本質だということなのである。  この問題は集団の性質と個人差との関係としてとらえることができる。  たとえば、仮に(あくまでも仮に)「まじめ度」のようなものを各個人について測定できて、数値で表現できるとしてみよう。まじめ度には当然個人差があるから、たくさんの人について測定すると、まじめ度の分布がわかるはずだ。それを血液型別に分けたとする。  もし図1のような結果が得られたとすれば、A型の人とO型の人をそれぞれひとりすずつ無作為に選んでまじめ度を比べると、ほぼ間違いなくA型の人のほうがまじめだという結果になるだろう。  いっぽう、図2のようになっていたとしたら、どうだろう。なるほどたしかにこの場合もA型の平均値はO型の平均値よりも高いのだから、平均すればA型の人のほうがまじめだといえる。しかし、図1と違い、分布はほとんど重なっているので、無作為に選んだふたりを比べてもどちらがよりまじめ度が高いかは予想できない。  図1は集団の性質からほぼ個人の性質がほぼ予測できる場合で、それに対して図2は集団としての性質の違いよりも個人差のほうが圧倒的に大きい場合である。血液型性格判断が意味を持つためには図1のほうでなくてはならない。しかし、これまでに行われた調査結果によれば、図1の可能性は否定されている。したがって、今後もし血液型と性格が実は関係していることが明らかになるとしても、可能性があるのは図2のように集団としての差よりも個人差のほうが大きい場合だけである。  そこで、僕たちは自信を持って「もしかすると血液型と性格とのあいだには弱い関係があるかもしれないが、血液型性格判断は否定されている」と言うことができる。  血液型性格判断を信じる人に向かって、血液型性格判断はとっくに否定されていますよ、と言うと、よく調べれば関係があることがわかるかもしれない、と反論されることがあるが、それに対する答はもう明らかだろう。たしかに、よく調べてみると血液型と性格との関係が見つかるかもしれないが、その関係は血液型性格判断とはなんの関係もないというわけだ。  さて、血液型性格判断をめぐる論理的な誤りはほかにもいろいろとみかける。以下ではいくつかの誤りについて検討しておこう。 (1)心理学による研究結果は信じられないので、血液型性格判断は否定されていない  これは言いがかりに近い意見だと思うのだが、経験的にはどうも自然科学や工学の現場に近い研究者には意外に多いようだ。たしかに性格心理学の主要な調査方法であるアンケート調査は自然科学の研究とはずいぶん違っている。主観で記入するところが特に気になるという人も少なくはないだろう。  しかし、もし「あなたはまじめですか」などという明示的なアンケートで調査していると思っているなら、考えを改めるべきだ。さすがに、そんなあからさまな質問ばかりでは、 さまざまな質問に対する答の分布から、統計的に傾向を調べる。  もっとも、能見だって統計に基づくと主張している。統計の誤りについては重要なので、あとであらためて検討しよう。  そうは言ってもやはり心理学を信じる気にはなれない、という立場はあってもいいと思う。ただし、心理学が信じられないからといって、「だから、血液型性格判断は正しい」という結論が出せるわけではない。その場合、言えるのは単に「わからない」ということだけだ。実はこれは次のもっと積極的な反対論と関係がある。 (2)血液型が脳内物質の分泌のしかたに影響するという生理学的なメカニズムがある。  血液型によって脳内物質の出かたに差があるという研究結果はどうやらあるらしい(check)。また、特定の脳内物質の分泌に異常があると性格に影響することは知られている(check)ので、これを組み合わせれば血液型と性格に関連があっても不思議はないではないかという結論になるだろう。  実はそういうこと自体はあってもかまわない。それどころか、心理学者もそれを否定しているわけではない。では、それが血液型性格判断の根拠になるのかといえば、残念ながらそう簡単にはいかない。生理学的なメカニズムがあることと、それが実際に「違いがわかるほど」の性格の差として表れるかどうかとはまた別の話だ。  いくらメカニズムがあっても微妙な効果しか生まないかもしれない。前に議論したとおり、血液型性格判断の問題で重要なのは「効果の程度」なのだから、効果が微妙なものなら、性格判断とは関係のない話である。  性格にどの程度の違いが表れるかを知りたければ、結局は性格そのものを調べるしかないのだが、今のところ心理学以外に性格そのものを調べる手段はない。脳波を調べようがMRIを使おうが、結局はそれが性格としてどれほどはっきりと表にあらわれるのかどうかがわからなければ、血液型性格判断の成否は議論できない。そして、これまでの知識から言えるのは、仮に血液型が性格に影響する生理学的なメカニズムがあるとしても、その効果は微妙なものにすぎないということだ。  もちろん、どれほど弱い関係でも、本当にそれがきちんと確認されれば、科学の問題としては興味深いだろう。  こういった「メカニズム論」は他にもさまざまな問題で顔を出す。もちろん、なにかはっきりした現象が確認されているなら、そのメカニズムを考える意味があるが、現象の有無はあくまでもその現象そのものを確認してはじめて言えるものだと、あらためて強調しておこう。メカニズムの有無ではなく、あくまでも現象の有無がまずは重要である。 ●否定側の誤り  血液型性格判断はわかりやすいだけに批判者も多い。しかし、中には的外れな比定のしかたもある。代表的な例を挙げて、どこが問題かを考えてみよう。 (1)性格のように複雑なものがたった四つに分類されるはずがない  たしかに人間の性格は人それぞれなので、たった四つにわけられるわけがないじゃないかと言われると、もっともな気がしてくる。しかし、これは必ずしも正しいとはいえない。  昔からクレッチマーの「気質の分類」などがあるが、ここでは仮にそういう話をすべて忘れて、新たに性格の分類を試みるとしよう。アンケート調査にするのか、あるいは行動を記録するのかはともかく、たくさんの人についてのデータを集める。そして、「似た傾向を示すデータ」ごとにグループに分けるのである。 「似た傾向」と言われるといい加減な話にきこえるかもしれないが、たとえば因子分析など、きちんとした統計処理の手法があるので、それに従って分けてみる。その結果、もしかすると、性格は大雑把には四つに分かれ、それぞれがさらに細かいグループに分かれるという階層構造をしていることがわかるかもしれない。  つまり、性格はたしかに千差万別なのだが、一番大雑把な分類では四つに分けられるということも充分にありうる。それどころか、もしかしたら二つや三つといったより少ない数に分類できてしまうかもしれない。もちろん、逆にどうしても十以下には分類できないかもしれない。それはやってみなくてはわからない。  つまり、四分類が原理的にありえないわけではないし、いくつに分類するのがもっともらしいかがあらかじめ決まっているわけでもないので、あくまでも実際のデータに基づいて分類してみるほかに確かめる方法はないのである。確かめもせずに「四つでは少なすぎておかしい」と言うわけにはいかないということだ。  なお、最近は、性格は大きく五つの因子で特徴付けられるという「ビッグ・ファイブ」説が有力である。これは性格が五つに分類できるという意味ではなく、五つの要素のさまざまな組み合わせとして表現できるという意味である。 (2)血液型の違いは赤血球についている糖鎖の違いに過ぎない。そのような些細な違いが性格に影響するはずがない  これもまた一見もっともらしいが、実はまったく否定の理由になっていない。ひとつひとつの分子の違いは小さくても、脳内には赤血球が膨大にあるので、全体として大きな違いを引き起こす可能性はある。事実、分子の些細な違いが大きな影響を与える例は、生理学の世界ではいくらでも見られる。  そもそも、血液型性格判断は決して糖鎖の違いが性格を決めるという主張ではない。あくまでも血液型と性格の関係であって、前に書いたように、血液型がどういうメカニズムで性格に影響するかは別の問題なのである。たとえば、ゲノム上で血液型を決める遺伝子の近くにある別の遺伝子が性格に関係していて、血液型と一緒に遺伝する傾向があるのかもしれない。そうだとしたら、糖鎖はなんの関係もないはずだ。  この種の否定のしかたは、前に述べた「生理学に基づく肯定」とちょうど裏表をなすたぐいのものと言っていいだろう。  もちろん、「ありそうにない」というのはかまわないし、そのためのもっともな理由でもあるのだが、否定としての説得力はあまりない。  大きくふたつの例をとりあげた。こういった否定のしかたは、結論こそ「血液型性格判断には科学的根拠がない」というものでも、そこにいたる根拠が論理的に誤っており、批判としての説得力には欠ける。 ●まとめ  血液型性格判断がなぜ否定されるのかといえば、心理学の調査では関係が見出されないからだ。否定の理由はこれしかなく、そしてこれだけで充分である。血液型と性格が関連するはずがないという物理化学的な理由も生理学的な理由もない。しかし、心理学の調査をしてみると、関係は見られなかった。したがって、微妙な関係がある可能性は残っているが、個人の性格をうんぬんできるようなはっきりした関係はないと結論できる。  ここで、どんなに些細な関係もないのかどうかは証明できないことを改めて強調しておこう。一般に「ある」ことは証明できても「ない」ことは証明できない場合が多い。たとえば、「幽霊は実在する」を証明したければ、ひとり(それとも一匹)でも幽霊を捕まえてくれば充分なのに対して、「幽霊は実在しない」を完璧に証明するには、世界のどこにもいないことを確かめなくてはならない。しかし、それは明らかに不可能だ。科学では、そのような不可能な証明は求めない。今の例では、「幽霊は実在する」と主張する側が幽霊を捕まえてみせなくてはならない。  血液型と性格の関係は身近な問題だけに、人それぞれにさまざまな意見や思い込みがある。関係ないと言われても、自分の経験では関係があるように思えると主張する人は多い。しかし、それは単に個人的な体験を主張しているだけで、科学的根拠ではない。そうではなく、血液型と性格の関連に思い当たる節がどれほどあろうと、それは思い込みであり、気のせいなのである。  自然科学の現場にいる人でも、こと血液型となると科学的でなくなってしまうのは考えようによってはなかなか面白い。  さて、前述のとおり、現代の血液型性格判断が「ニセ科学」とよばれるべきものなら、同じように間違っていたかつての古川説もやはり「ニセ科学」だったのだろうか。それを考えるには、なぜ現代の血液型性格判断が「ニセ科学」なのかから議論しなくてはならない。  まず最初に、僕たちは単に間違った学説のことを「ニセ科学」とは呼ばないことを強調しておこう。そもそも、あらゆる学説はそれが提唱された時点では正しいとも間違いとも決まっているわけではない。他の科学者たちによる検証の手続きを経てはじめて、それが正しいかどうかが決まるというのが、科学の手順である。当然、検証の結果、正しくないことがわかる学説もある。  この手順から明らかなように、科学は誤りがつきものなので、誤りであることがわかっただけでは「ニセ科学」とはならない。それは単なる「間違い」にすぎない。だいじなのは、それが科学的な手続きによって研究されたかどうかであって、結果として否定されたかどうかは、ニセ科学かどうかとは別の問題である。  そういう観点からすると、古川学説はニセ科学ではなかったことを強調しておきたい。それどころか、「もしも性格が遺伝するものなら(これは推測にすぎないが)、やはり遺伝することがはっきりしている血液型となんらかの関係があるのではないか」という推測は、時代を考えれば、むしろ目のつけどころとしてはよかったといってもいいかもしれない。いずれにしても、きちんと学説として発表され、他の研究者による検証の結果として否定されたのだから、これは科学として普通の手順を踏んだものだ。  もちろん、現代科学の目から見れば、古川の論は科学的とは言い難いだろうし、また、科学的ではないという声は当時もあった。時代を反映して、差別的な面もある。それでも、当時の科学知識からすれば、科学的だったといっていいのではないかと思う。  それでは、おなじような内容でありながら、なぜ能見とそれ以降の血液型性格判断はニセ科学なのか。それは、科学的にはとっくに否定されているものをあたかも科学的事実であるかのように主張するからだ。  繰り返しになるが、血液型と性格が関係するはずがないと言いきるだけの根拠はない。しかし、心理学者のこれまでの研究によれば、そういった関係は見つかっていないので、仮に関係があるのだとしても、それは心理学のテストには反映しないほどの弱い関係でしかないはずだ。関係の「強弱」の程度問題は本質的に重要である。