科学と科学のようなもの

菊池誠

1. 科学する心

 まがりなりにも科学の現場で生活しているので、オウム真理教の事件にはいろいろな意味で考えさせられた。理科系の大学教育を受けたり、場合によっては大学院まで出たような人たちが、空中浮揚だとか地震兵器だとかの与太話を真に受けて信じちゃったのはいったいどういうわけなんだか。表向き科学を学んだことにはなっていても、その実、科学的思考法は身につけなかったということだろうな。科学っていうのはとどのつまりはものの考えかたなのであって、数式をおぼえるとか実験技術を学ぶとかはそのあとだってかまわないはずだと思う。だけど、数式を暗記させるだけの高校教育とか、役に立つことだけを目的にした大学教育とかにはまりこんじゃうと、一番大事なことが見えなくなってしまうのかもしれない。

 オウム真理教はああいう事件を起こしたから、彼らだけが突出しているように見える。でも、そうじゃない普通の人たちの中にも、実は非科学に引っかかっちゃってる人は多いみたいだ。実際、書店にいってみると、膨大な量の擬似科学・似非科学の本が出版されているのがわかる。内容はというと、まあどれもこれもしょうもない

 ところが困ったことに、どうやらこれが売れてるらしい。たしかに、普通の科学書より装丁が派手だし、帯にもセンセーショナルな文句が書いてあるし、それに小難しい科学書と違ってわけのわからない数式も出てこないみたいだし、となると手にとる気にもなろうというもの・・・かもしれない。でも、だめだ。擬似科学は擬似科学、似非科学はやっぱり似非科学、所詮科学的思考の産物じゃない。

 そうは言っても、じゃあ科学と擬似科学はどこが違うのだろう。一見しただけじゃ、科学的に書かれているようだけど、なにがいけないのだろう。というわけで、今回は科学のようで科学でないもの、擬似科学・似非科学について考えてみようと思う。空中浮揚はいくらなんでも論外なので、もう少し科学と紛らわしいものを例にとって、その精神に少しでも迫ってみることにしたい。

2. ただで手にいれる

 フリーエネルギーという言葉を聞いたことがあるだろうか。あるいは宇宙エネルギーなどと呼ぶ人もいる。空間にはそういう未知のエネルギーが充満しているので、うまい装置を作ってそれを取り出せば、文字通りただで無限のエネルギーを手にいれられるのだという。確かにそんな装置ができたらエネルギー問題は完全に解決だ。でも、残念ながら、世の中そううまくはできていない。これはまごうかたなき擬似科学なのだ。

 このフリーエネルギーを取り出す装置としていろいろな種類のものが考案されている。典型的なのは回転系を組みこんだ装置で(要するにモーター)、いったん駆動すると外から供給した電力よりも大きなエネルギーを回転系から取り出せると主張されている。これが本当なら、まさにどこからともなくエネルギーが得られたことになる。

 もちろん、それではエネルギー保存則に反してしまう。でも、フリーエネルギー研究者はそんなこと百も承知だ。エネルギー保存則に関して、彼らはたとえばこんなふうに主張する。曰く、エネルギー保存則は証明されていない(だから成りたたなくてもいい)。曰く、宇宙エネルギーを含めてエネルギー保存則はなりたっている。

 前者はなかなかいいところをついていると思う。確かにエネルギー保存則は証明されていないと言って間違いじゃない。もっとも、それを言うなら、物理法則に証明されたものなんかない。そもそも物理法則というのは経験の集大成なのであって、証明されるようなものではないのだから。法則とは実験の積み重ねの中から「発見」されて、実験で「検証」されてゆくものだ。じゃあ、物理学というのは砂上の楼閣なのか、と思うのはとんでもない早とちり。むしろ、経験則の集大成だからこそ、机上の空論ではない強固なものなのだ。

 エネルギー保存則もまた膨大な数の実験で検証され続けてきた。物理の歴史はエネルギー保存則を確立する歴史だったと言ってもいいくらいだ。だから、物理学者がフリーエネルギーと聞いてもとりあわない理由は(あるいは笑っちゃう理由は)、別段今の形でのエネルギー保存則を神聖なものとしてあがめたてまつっているからじゃない。ただ、そんな単純な装置ごときでエネルギー保存則の破れが検知できるはずはないと知っているからにすぎない。そんなレベルでの実験は大昔から幾度も繰りかえされてきたものなのだから。過去の膨大な実験結果に基づいて、その程度の実験ではエネルギー保存則の反例が見つかるわけがないと知っているだけだ。

 じゃあ、未知のフリーエネルギーまで含めてエネルギー保存が成りたっている、という主張のほうはどうだろう。これも本質的には前の話と同じなのだけど、こちらは不可知論の領域に一歩踏み込んでしまっている。実際、フリーエネルギーなるものをきちんと確認できていない以上、現段階では不可知論にすぎない。

 ただしひとつ言えることがある。いかに確認されていないとはいっても、エネルギーだと主張するからには、それがエネルギーとしての資格をそなえていなくちゃならない。たとえば、物体を地表から適当な高さまで持ちあげたとすると、物体は地球の引力による位置エネルギーを獲得する。この位置エネルギーは地表からの高さだけで決まるので、どうやってその高さに持ちあげたかには関係ない。持ちあげるかわりに、上のほうからおろしてきても、やっぱり位置エネルギーの量は同じになる。これはエネルギーの持つべき基本的な性質だ(というか、これはエネルギー保存則のひとつの表現)。ほかの種類のエネルギーの場合も、高さのかわりにしかるべきものを考えれば同じ性質を持っている。一見あたりまえと思うかもしれないけど、実はこれが大変に大きな制約になっていて、なんでもかんでもエネルギーの仲間にいれるわけにはいかないのである。勝手なものを持ってきて、エネルギーですよと言われても困る。本当にフリーエネルギーはそういう性質を持っていると主張できるのだろうか。

 永久磁石もまた回転系とならんでフリーエネルギー研究家に人気のアイテムになっている。磁石が金属をくっつけたままでいられるのを見て、金属を引きつけるだけのエネルギーが常にどこからか湧き出ていると思うらしい。そのエネルギーをなんとか取り出せれば確かにすばらしい。

 残念ながら、これはエネルギーと力についての根本的な誤解の産物である。たぶん、磁石と金属だから誤解するのだろう。磁石の代わりに地球を考えてみればいい。僕たちが地面に立っていられるのは、地球の引力に引きつけられているからだ。だからって、地球が常にどこかからエネルギーの供給を受けてるとは思わないんじゃないだろうか(思うのかな)。地球を磁石に、引力を磁力に置きかえれば同じことなのだけど。永久磁石からフリーエネルギーを取り出せんじゃないかと思ったら、自分がなぜ地面に立っていられるのかをあらためて考えてみるべきなのだ。

3. 人の間違いをあげつらう前に

 最近は「相対論は間違っている」系の本がはやっている。この手の本については、いろいろなところですでに詳細な検討がなされているので詳しくは書かないけれど、一点だけあらためて強調しておきたい。

 光速度不変を実験的に見出したとして有名なマイケルソン・モーレーの実験というのがある。相対論の出発点は光速度不変の法則だから、この実験の誤りを見つければ相対論が否定できると考える人たちがいる。残念ながら、これじゃだめだ。よしんばマイケルソン・モーレーの実験がなんらかの理由で間違っていたとしても、相対論に対してはなんの影響もない。それは、反相対論本の著者がよく言うように「物理学者はアインシュタインを神聖化している」からじゃない。マイケルソン・モーレー以降も、いろんな種類の精密な実験によって相対論が検証され続けてきたことを知ってるからだ。

 マイケルソン・モーレー以外に実験がないと思ってるようじゃ、いくらなんでもお粗末にすぎる。それどころか、極論すれば、今やアインシュタインの原論文がまったくの誤りだったということになったって、相対論は揺るがない。本当に相対論を否定し去るつもりなら、アインシュタインの原論文だとかマイケルソン・モーレーの実験だけをいくら考えたってどうにもならない。これまで相対論を検証してきた実験を軒並否定できるようでなくっちゃだめなのだ。

4. 不可知論にはまりこむ

 ESPとかテレパシーとかを科学的に研究しようという学問を超心理学という。これ自体は大変結構なことだと思う。あるとかないとかを思い込みや好き嫌いのレベルでいくら言いあったところで、何も解決しない。とにもかくにも条件の整った実験を繰りかえして、きちんとしたデータ処理をしないことには、検証もなにもはじまらない。ただし、自分が期待したような結果が出なくても、それを受け入れる覚悟がなきゃだめだ。それが嫌なら実験しないことだ。

 残念ながら、ESPについて肯定的な実験結果はなかなかでなかったらしい。そこでいろいろな仮説がたてられた。中にこういう仮説がある。ESPは存在を明らかにされるのを嫌うので、インチキができないように厳密に実験条件が設定されたときは発現しない、というもの。インチキができるような条件下なら、本当のESPかインチキかを区別できないことによって、安心して(?)ESPが発現する。ついでに、ESPを信じない人の前ではESPは発現しない、というのもある(山羊・羊仮説)。

 こんな仮説を好きに組み合わせたらなんでもできてしまう。疑いをもたない人たちだけを前にして、インチキかインチキでないかもわからないような実験状況でなにかが起こったとして、それはなにを確かめたことになるんだろう。この手の仮説を受け入れたが最後、もはやESPを否定する実験を構成できなくなってしまう。こういうのは反証不能の万能仮説である。万能なために、科学の仮説としての資格を失っている。だって、絶対に否定できなくなっちゃうなら、実験する必要もないんだから。もっとも、肯定もできなくなるはずなのだけど、その点はどう考えてるのか知らない。

 結局、望みの結果が出なかったときに、それを受け入れられず不可知論に流れた人たちがいる、ということだ。超心理学を例にあげたけど、別段この分野に限らない。期待通りの結果を得られなかったときの対応を誤って、科学から擬似科学の領域に踏みこんでしまった例は多い。

5. 明日は何処へ

 擬似科学・似非科学っていうのは、不勉強と思いこみの産物だ。単なる好き嫌いと科学的な手続きとの区別がまったくつけられていない。一見科学的なように思える本でも、逐一検討してみれば結局は好き嫌いのレベルでの思い込みだけで書かれていることがわかる。その思い込みを支えるのが、科学についての不勉強・認識不足だ。何度も強調したように、物理法則は膨大な実験で検証されてきたものなのに、そこをまったく認識していないから、いともたやすく法則を否定できると思ってしまう。  世の中にはたしかに異端と呼ばれる学説がいくらでもあるし、異端がのちに正しいと認められた例も多い。それは事実。そこで擬似科学者は自分の説もその仲間だと主張したがる。でも、だめだ。科学的な思考法にもとづいた異端と、単なる好き嫌いとはぜんぜん別物なのだから。  日々新たな擬似科学・似非科学が発明されているので、いちいち検討していたらきりがない。幸い、この手の問題を扱った本もいろいろあるので、興味をもったかたは参考文献にあたってください。  今回はとりあげなかったけれど、電脳サブカルチャーの一部は明らかにオカルトやニューサイエンスといった擬似科学・非科学と結び付きを強めている。それとはまた別にニフティサーブなんかにも超常現象・擬似科学系の会議室があって、結構にぎわっているようだ。不思議な現象があったら面白いと考えるのは別段悪いことじゃない。でも、なんでもかんでも無批判に信じちゃうのは、やっぱり困る。素朴なオカルト・擬似科学信者には批判に耳を塞いでしまう人が多いようで残念だ。

以下は本文からリンクされたテキスト


 パワーブックが欲しかったけど、高いのでWindowsノートを買ってしまいました。だって、800×600のTFT液晶の機械だと倍くらい値段が違うんだもの。Windows3.1などというしょうもないOS(とは呼べないけど)しかなかったなら、無理してでもパワーブックにしたかもしれませんが、Win95はMacOS87だか89だかと言われるだけあって、かなりOSとしての体裁を整えた「使える」ものになっています。いかにMacOSのほうができがいいとはいっても、もはや倍の金額を払うほどの差とは思えません。  というわけで、マックを使ってない私ですが、本文の感想等聞かせていただけるとうれしいです。e-mailはkikuchi@phys.sci.osaka-u.ac.jpまたはニフティサーブGBF01555まで。またWWWはhttp://glimmung.phys.sci.osaka-u.ac.jp/kikuchi.htmlで。
 オウムの故村井秀夫氏は僕が今勤務している大学の修士課程を出ている。氏を送り出したという事実によって、うちの大学は教育研究機関としてある種の原罪を背負ってしまったのかもしれないとさえ思う。
 ためしに中高生なら理科の先生に、大学生なら理学・工学・医学なんかの教官にオウムについての感想をきいてみたらいいと思う。無関心な先生とか、自分とは関係ないと答えるような先生なら、悪いけど教育者としては失格だ。オウムを特殊な例としか思えないようじゃ現状認識が甘すぎる。
 読まずに言ってるわけじゃないので、念のため。なにか面白いのがあるかと思って、今までいろいろ読んできたのである。あまりの微笑ましさに笑っちゃうのとかはあったものの、感心するようなものにはお目にかかっていない。
 徳間書店なんて、それ専門のシリーズを始めちゃったくらいだ。大手出版社としての見識もへったくれもありゃしない。あえて、社名をあげて糾弾しておく。
 実は一般向けのいい科学書が少ないというのも問題なのだ。擬似科学書より面白い科学書がたくさんあれば、誰も擬似科学書なんか読まないかもしれないのに。  残念ながら、日本の科学者は往々にしてそういう本を書くのが苦手だ。難しい本は書けても易しい本が書けない。一般向けのはずなのに、超難解な式が平気で書いてあったりする。それじゃ、誰も読んでくれないよ。易しく書くという訓練も受けていないし、それを重要と思っている人も少ないのだと思う。言ってる僕自身、易しく書けてる自信がないですけど。

 一般向けのいい本を書いても業績として評価されにくい(それどころか、一般向けの本を書くのは科学者の仕事じゃないと思っている人さえいる)という学会の体質をなんとかしないといけないのだろう。

 ちなみに、このコラムの相方の田口さんが書いた「砂時計の七不思議」(中公新書)はとてもいい本です。


 ちなみに結跏趺坐のまま「ジャンプ」するだけの空中浮揚なら超能力でもなんでもない。10センチやそこらでよければ、ちょっと練習するだけでできるようになるのでお試しあれ。といっても、残念ながら僕自身はそもそも結跏趺坐が組めないので話にならないのだけど、妻はすぐに跳べるようになった。真上ではなく心持ち斜め前方へ跳ぶのがコツらしい。

 以前読んだ新聞によれば、どこかの国ではこのジャンプの高さを競うコンテストもあるそうな。要するにその程度の技である。


 熱力学を勉強したことのある人は、ヘルムホルツの自由エネルギー(フリーエネルギー)やギブスの自由エネルギーというのをおぼえているかもしれない。これはもちろんちゃんと定義されたエネルギーで、別段変なものじゃない。今問題にしているフリーエネルギーと名前こそ同じでも中身は全然違う。

 熱力学でいう自由エネルギーが「利用できるエネルギー」という意味合いなのに対して、擬似科学者のいうフリーエネルギーには「ただで使えるエネルギー」というニュアンスが強い。


 宇宙エネルギーと言われるといかにもうさんくさいけど、フリーエネルギーといわれるとなんとなくもっともらしく聞こえるから困る。とは書いたものの、実は宇宙エネルギーなんていういかがわしい題名でも本は売れるのだ。
 この場合、出力を入力に戻してやれば永久機関が作れてしまう。フリーエネルギー装置というのはつまり永久機関である。

 ちなみに、このようにエネルギーを生み出してしまうような機関(つまりエネルギー保存則を破るもの)は第一種永久機関と呼ばれる。永久機関にはほかに第二種永久機関とよばれるタイプもある。こちらはエネルギーを生み出さないのでエネルギー保存則には触れないものの、熱力学第二法則を破るのでやはり実現できない。もっとも、第二種永久機関の原理と称されるものは一般に第一種より手が込んでいて、どこが間違っているかを簡単には指摘できない場合が多いのだけど。

 なお、日本では第一種・第二種を問わず永久機関には特許がおりないらしい。


 熱力学第二法則ほど誤解されている法則もないかもしれない。物理学科の学生でも「エントロピーは常に増加する」とだけ呪文のようにおぼえてたりする。そうじゃないっていうのに(ちゃんと条件を言わなきゃ意味がない)。

 エントロピーなんていうむずかしい言葉を使わなくても、熱いものと冷たいものをくっつけておくとどちらもぬるくなってしまう、というのが第二法則の内容である。いくら冷たいといったって絶対0度でない限りは熱エネルギーをもっているので、仮に冷たいほうから熱いほうへエネルギーが流れて、熱いほうがより熱く、冷たいほうがより冷たくなったとしてもエネルギー保存則には反しない。だけど、そんな変化が自然に起きるのを見た人は誰もいない。そこで、熱は熱いほうから冷たいほうへしか流れないことに決まっていると考えざるをえない。こうして、エネルギー保存則とは別の法則が必要になり、熱力学第二法則が確立した。


 その手の本では超効率(入力よりも出力が大きい)を実現したという記事を時折見かける。でも、よく読んでみると、本当にエネルギー収支がプラスになってるわけじゃないことがわかる。収支としては相変わらず外からの供給量のほうが多いのだ。ただ、装置のいろんな部分でのロスを見積もってその分を利得に足してやれば、収支はプラスになるのだという。なんだ、それならロスの見積もりしだいでどうにでもできるじゃないか。

 そういう意味では、真の超効率は未だ報告されていない。当然だけどね。


 物理学科の学生でもこれをちゃんと認識していない人が多いんじゃないだろうか。
 ここを勘違いして、すべての法則が演繹的に導かれるべきだと思って人もいるし、演繹的に導かれるものほど価値が高いと思ってる学生もみかける。物理科学が本質的に実証科学だという点を忘れているのである。

 もちろん、ある法則がもっと基本的な法則から導かれることはある。それは単に基本法則の数がひとつ減るだけのことだ。


 最初は力学的なエネルギーに関する保存則だけがあればよかった。それから保存則を破る現象が見つかっては、そのたびに新しい形のエネルギーが発見されるということがくり返されてきた。そうやってエネルギーのリストに加わっていったものが、電磁気によるものであったり、熱エネルギーであったり、あるいは有名なE=mc^2で表される質量のもつエネルギーだったりする。

 特に、熱がエネルギーの一形態だとわかるまでの変遷は歴史としても大変面白いので、興味のあるかたは「物理学とは何だろうか」(朝永振一郎、岩波新書)を。これは名著。


 事実、物理学者は未知のエネルギーがあるかもしれないと常に考えているし、むしろ、そういうものが発見されるのを望んでいる。

 たとえば、第五の力だとか、右回りのコマと左回りのコマでは重さが違うとか、そういう実験結果が出たというので話題になったのをおぼえているだろうか。未知の力があることと未知のエネルギーがあることは、まあ同じことなので、これは既知のエネルギーだけではエネルギー保存則が破れているという主張だと思っていい。この二つの論文はきちんとした論文雑誌に掲載された。非常に微妙なレベルでの破れなので、ありえないことではないと思われたのである。

 未知のエネルギーがありそうだという主張に対して、それが科学的な手続きを踏まえたものである限り、物理学者はいつでも耳を傾けるのだ。残念ながら、その後の追試によって今ではどちらも間違いだったと思われているのだけど。


 少なくとも物理の世界では、論文雑誌に掲載されたからといって正しいとは限らない。きちんと科学的な手順が踏まれていて、一見してわかるような誤りはないと認められれば、雑誌には掲載される。内容の正否は掲載後に判断されてゆくのである。論文として発表されながら後で間違いとわかった例はいくらでもあるし、それで論文の著者が非難されるような筋合いのものでもない。科学はそうやって発展してきたのだから。

 ちなみに学会での口頭発表にいたっては、日本物理学会に関する限り、内容は一切チェックされない。それでいいのだ。


 いくつかの反相対論本についてはニフティサーブのFSCIやFSF3に詳細な議論がある。また、雑誌「パリティ」(丸善)の1995年9,11号に松田卓也・木下篤哉両氏による「相対論の正しい間違いかた」という記事があり、反相対論本に見られる典型的な誤りが議論されている。
 今までの実験精度よりずっと細かいところでなら、相対論に欠陥が見つかるかもしれない。もっとも、それは相対論の適用限界が見つかるということにすぎないので、相対論を否定したことにはならない。相対論が出たからといってニュートン力学が否定されたわけじゃないのと同じことだ。光速度より充分に遅い運動については、相変わらずニュートン力学で考えることができる。
 擬似科学への反論として、物理法則は実験でくりかえし検証されたものだと強調してきた。でも、法則法則というけれど、世の中が法則に従って動いているということ自体が科学者の単なる思い込みだとしたら・・・。

 科学というのは、ある意味で約束ごとの世界だ。実験から法則を発見すると書いたけど、この前提として、法則というものがあるのだと暗黙のうちに仮定している。今日までの実験結果から法則を見つけ出して、同じ法則が明日も成りたつと信じている。もちろん、そんなことが証明されたわけじゃない。今日までなりたっている法則は明日も必ずなりたつという前提自体が経験にもとづく法則なのである。これがあるおかげで、法則は単なる過去の記述ではなくて未来を予言する力をもつ。僕たちが、地球は明日もまわっていると信じていられるのは、この予言力があるからだ。法則が過去のできごとを記述する力しかもたないなら、法則なんかいくつ見つけたってしょうがない。

 明日突然エネルギー保存則がなりたたなくなるかもしれない。今日までエネルギー保存則がなりたっていたように見えたのは、たまたま偶然のできごとだったのかもしれない。純粋に原理的には、そういうことがあってもいいのだろう。でも、たぶんそうはならない。僕たちは明日も今日までと同じ法則がなりたつと信じている。少なくとも今までそれでうまくいっていたんだから、これからもそれでうまくいくと考えるほうが作業仮説として有効じゃないか。

 それまで徹底して否定してしまう立場もありうる。ただし、それは未来の予想がいっさい立たない、なんでもありの世界を認めることだ。あえて首尾一貫してその立場をとろうというなら止める筋合いはない。それは科学じゃないけれど、別の哲学を作れるのかもしれない。でも、好きなものだけ認めて気にくわないものは否定する、というのじゃだめだ。


最近だと、一連の「波動」ものが出版点数・装丁の立派さ・非科学度の高さの三点から見て抜群か。でも、これが結構読まれているので要注意。
とりあえず、 あたりは必読でしょう。と学会の本にはさらに文献が挙げられているので参考にしてください。「逆襲」中には物理学者・前野昌弘氏による、擬似科学本についての的確な論考も収録されています。
と学会の本は擬似科学否定を目的にしたものではないので、擬似科学以外にもいろいろと笑える話が取り上げられています。
伝統的な科学に背をむけることが反体制的だと思っているのか、科学と非科学の区別がつかないのか、僕は知らない。たぶん、両方いるんだろうね。たちの悪いことに反科学的な発言がヒップと思われているふしさえある。僕自身、70年代ロック少年の生き残りなので、反体制的な発言にはシンパシイを感じることも多いんだけど、さすがに科学っていうのはそういうものじゃないと思う。
流行に敏感なテクノヒッピー(^^)は自ら進んで反科学へ流れるのか。どのくらい馬鹿な話が横行しているかは、「サイベリア」(D.ラシュコフ、アスキー)が参考になる。ただし、この本の著者自らがまったく批判能力をもっていないので、読むときは注意が必要。
 僕だって、子供の頃には中岡俊哉とかの超常現象本を愛読していたし、ESPカードだって作ったわけで、今でもそういう与太話は好きだ。数年前にイギリスへ行ったときは、国際会議の合間を塗って、わざわざ電車で何時間もかけてネス湖まで行ったのである。MJ12という名前のバンドだって組んだ

。  要するに好き嫌いと信じる信じないは別問題なのだ。この区別がつかないなら子供と同じである。


 かつてアメリカのトルーマン大統領がじきじきに命じてUFO情報隠蔽のための秘密機関を作った。それがMJ12である。という、まあそんなことを書いた秘密文書が発見されたのだ。テレビのUFO番組でも取りあげられているのでご存知かもしれない。

 今では、この文書は偽造されたものであることが明らかになっている。未だにMJ12が実在だったかのように扱われることがあるけど、それは偽造だということを知らないか、さもなければ知った上でやっている悪質なものかのどちらかである。