オウム真理教はああいう事件を起こしたから、彼らだけが突出しているように見える。でも、そうじゃない普通の人たちの中にも、実は非科学に引っかかっちゃってる人は多いみたいだ。実際、書店にいってみると、膨大な量の擬似科学・似非科学の本が出版されているのがわかる。内容はというと、まあどれもこれもしょうもない。
ところが困ったことに、どうやらこれが売れてるらしい。たしかに、普通の科学書より装丁が派手だし、帯にもセンセーショナルな文句が書いてあるし、それに小難しい科学書と違ってわけのわからない数式も出てこないみたいだし、となると手にとる気にもなろうというもの・・・かもしれない。でも、だめだ。擬似科学は擬似科学、似非科学はやっぱり似非科学、所詮科学的思考の産物じゃない。
そうは言っても、じゃあ科学と擬似科学はどこが違うのだろう。一見しただけじゃ、科学的に書かれているようだけど、なにがいけないのだろう。というわけで、今回は科学のようで科学でないもの、擬似科学・似非科学について考えてみようと思う。空中浮揚はいくらなんでも論外なので、もう少し科学と紛らわしいものを例にとって、その精神に少しでも迫ってみることにしたい。
このフリーエネルギーを取り出す装置としていろいろな種類のものが考案されている。典型的なのは回転系を組みこんだ装置で(要するにモーター)、いったん駆動すると外から供給した電力よりも大きなエネルギーを回転系から取り出せると主張されている。これが本当なら、まさにどこからともなくエネルギーが得られたことになる。
もちろん、それではエネルギー保存則に反してしまう。でも、フリーエネルギー研究者はそんなこと百も承知だ。エネルギー保存則に関して、彼らはたとえばこんなふうに主張する。曰く、エネルギー保存則は証明されていない(だから成りたたなくてもいい)。曰く、宇宙エネルギーを含めてエネルギー保存則はなりたっている。
前者はなかなかいいところをついていると思う。確かにエネルギー保存則は証明されていないと言って間違いじゃない。もっとも、それを言うなら、物理法則に証明されたものなんかない。そもそも物理法則というのは経験の集大成なのであって、証明されるようなものではないのだから。法則とは実験の積み重ねの中から「発見」されて、実験で「検証」されてゆくものだ。じゃあ、物理学というのは砂上の楼閣なのか、と思うのはとんでもない早とちり。むしろ、経験則の集大成だからこそ、机上の空論ではない強固なものなのだ。
エネルギー保存則もまた膨大な数の実験で検証され続けてきた。物理の歴史はエネルギー保存則を確立する歴史だったと言ってもいいくらいだ。だから、物理学者がフリーエネルギーと聞いてもとりあわない理由は(あるいは笑っちゃう理由は)、別段今の形でのエネルギー保存則を神聖なものとしてあがめたてまつっているからじゃない。ただ、そんな単純な装置ごときでエネルギー保存則の破れが検知できるはずはないと知っているからにすぎない。そんなレベルでの実験は大昔から幾度も繰りかえされてきたものなのだから。過去の膨大な実験結果に基づいて、その程度の実験ではエネルギー保存則の反例が見つかるわけがないと知っているだけだ。
じゃあ、未知のフリーエネルギーまで含めてエネルギー保存が成りたっている、という主張のほうはどうだろう。これも本質的には前の話と同じなのだけど、こちらは不可知論の領域に一歩踏み込んでしまっている。実際、フリーエネルギーなるものをきちんと確認できていない以上、現段階では不可知論にすぎない。
ただしひとつ言えることがある。いかに確認されていないとはいっても、エネルギーだと主張するからには、それがエネルギーとしての資格をそなえていなくちゃならない。たとえば、物体を地表から適当な高さまで持ちあげたとすると、物体は地球の引力による位置エネルギーを獲得する。この位置エネルギーは地表からの高さだけで決まるので、どうやってその高さに持ちあげたかには関係ない。持ちあげるかわりに、上のほうからおろしてきても、やっぱり位置エネルギーの量は同じになる。これはエネルギーの持つべき基本的な性質だ(というか、これはエネルギー保存則のひとつの表現)。ほかの種類のエネルギーの場合も、高さのかわりにしかるべきものを考えれば同じ性質を持っている。一見あたりまえと思うかもしれないけど、実はこれが大変に大きな制約になっていて、なんでもかんでもエネルギーの仲間にいれるわけにはいかないのである。勝手なものを持ってきて、エネルギーですよと言われても困る。本当にフリーエネルギーはそういう性質を持っていると主張できるのだろうか。
永久磁石もまた回転系とならんでフリーエネルギー研究家に人気のアイテムになっている。磁石が金属をくっつけたままでいられるのを見て、金属を引きつけるだけのエネルギーが常にどこからか湧き出ていると思うらしい。そのエネルギーをなんとか取り出せれば確かにすばらしい。
残念ながら、これはエネルギーと力についての根本的な誤解の産物である。たぶん、磁石と金属だから誤解するのだろう。磁石の代わりに地球を考えてみればいい。僕たちが地面に立っていられるのは、地球の引力に引きつけられているからだ。だからって、地球が常にどこかからエネルギーの供給を受けてるとは思わないんじゃないだろうか(思うのかな)。地球を磁石に、引力を磁力に置きかえれば同じことなのだけど。永久磁石からフリーエネルギーを取り出せんじゃないかと思ったら、自分がなぜ地面に立っていられるのかをあらためて考えてみるべきなのだ。
光速度不変を実験的に見出したとして有名なマイケルソン・モーレーの実験というのがある。相対論の出発点は光速度不変の法則だから、この実験の誤りを見つければ相対論が否定できると考える人たちがいる。残念ながら、これじゃだめだ。よしんばマイケルソン・モーレーの実験がなんらかの理由で間違っていたとしても、相対論に対してはなんの影響もない。それは、反相対論本の著者がよく言うように「物理学者はアインシュタインを神聖化している」からじゃない。マイケルソン・モーレー以降も、いろんな種類の精密な実験によって相対論が検証され続けてきたことを知ってるからだ。
マイケルソン・モーレー以外に実験がないと思ってるようじゃ、いくらなんでもお粗末にすぎる。それどころか、極論すれば、今やアインシュタインの原論文がまったくの誤りだったということになったって、相対論は揺るがない。本当に相対論を否定し去るつもりなら、アインシュタインの原論文だとかマイケルソン・モーレーの実験だけをいくら考えたってどうにもならない。これまで相対論を検証してきた実験を軒並否定できるようでなくっちゃだめなのだ。
残念ながら、ESPについて肯定的な実験結果はなかなかでなかったらしい。そこでいろいろな仮説がたてられた。中にこういう仮説がある。ESPは存在を明らかにされるのを嫌うので、インチキができないように厳密に実験条件が設定されたときは発現しない、というもの。インチキができるような条件下なら、本当のESPかインチキかを区別できないことによって、安心して(?)ESPが発現する。ついでに、ESPを信じない人の前ではESPは発現しない、というのもある(山羊・羊仮説)。
こんな仮説を好きに組み合わせたらなんでもできてしまう。疑いをもたない人たちだけを前にして、インチキかインチキでないかもわからないような実験状況でなにかが起こったとして、それはなにを確かめたことになるんだろう。この手の仮説を受け入れたが最後、もはやESPを否定する実験を構成できなくなってしまう。こういうのは反証不能の万能仮説である。万能なために、科学の仮説としての資格を失っている。だって、絶対に否定できなくなっちゃうなら、実験する必要もないんだから。もっとも、肯定もできなくなるはずなのだけど、その点はどう考えてるのか知らない。
結局、望みの結果が出なかったときに、それを受け入れられず不可知論に流れた人たちがいる、ということだ。超心理学を例にあげたけど、別段この分野に限らない。期待通りの結果を得られなかったときの対応を誤って、科学から擬似科学の領域に踏みこんでしまった例は多い。
一般向けのいい本を書いても業績として評価されにくい(それどころか、一般向けの本を書くのは科学者の仕事じゃないと思っている人さえいる)という学会の体質をなんとかしないといけないのだろう。
ちなみに、このコラムの相方の田口さんが書いた「砂時計の七不思議」(中公新書)はとてもいい本です。
以前読んだ新聞によれば、どこかの国ではこのジャンプの高さを競うコンテストもあるそうな。要するにその程度の技である。
熱力学でいう自由エネルギーが「利用できるエネルギー」という意味合いなのに対して、擬似科学者のいうフリーエネルギーには「ただで使えるエネルギー」というニュアンスが強い。
ちなみに、このようにエネルギーを生み出してしまうような機関(つまりエネルギー保存則を破るもの)は第一種永久機関と呼ばれる。永久機関にはほかに第二種永久機関とよばれるタイプもある。こちらはエネルギーを生み出さないのでエネルギー保存則には触れないものの、熱力学第二法則を破るのでやはり実現できない。もっとも、第二種永久機関の原理と称されるものは一般に第一種より手が込んでいて、どこが間違っているかを簡単には指摘できない場合が多いのだけど。
なお、日本では第一種・第二種を問わず永久機関には特許がおりないらしい。
エントロピーなんていうむずかしい言葉を使わなくても、熱いものと冷たいものをくっつけておくとどちらもぬるくなってしまう、というのが第二法則の内容である。いくら冷たいといったって絶対0度でない限りは熱エネルギーをもっているので、仮に冷たいほうから熱いほうへエネルギーが流れて、熱いほうがより熱く、冷たいほうがより冷たくなったとしてもエネルギー保存則には反しない。だけど、そんな変化が自然に起きるのを見た人は誰もいない。そこで、熱は熱いほうから冷たいほうへしか流れないことに決まっていると考えざるをえない。こうして、エネルギー保存則とは別の法則が必要になり、熱力学第二法則が確立した。
そういう意味では、真の超効率は未だ報告されていない。当然だけどね。
もちろん、ある法則がもっと基本的な法則から導かれることはある。それは単に基本法則の数がひとつ減るだけのことだ。
特に、熱がエネルギーの一形態だとわかるまでの変遷は歴史としても大変面白いので、興味のあるかたは「物理学とは何だろうか」(朝永振一郎、岩波新書)を。これは名著。
たとえば、第五の力だとか、右回りのコマと左回りのコマでは重さが違うとか、そういう実験結果が出たというので話題になったのをおぼえているだろうか。未知の力があることと未知のエネルギーがあることは、まあ同じことなので、これは既知のエネルギーだけではエネルギー保存則が破れているという主張だと思っていい。この二つの論文はきちんとした論文雑誌に掲載された。非常に微妙なレベルでの破れなので、ありえないことではないと思われたのである。
未知のエネルギーがありそうだという主張に対して、それが科学的な手続きを踏まえたものである限り、物理学者はいつでも耳を傾けるのだ。残念ながら、その後の追試によって今ではどちらも間違いだったと思われているのだけど。
ちなみに学会での口頭発表にいたっては、日本物理学会に関する限り、内容は一切チェックされない。それでいいのだ。
科学というのは、ある意味で約束ごとの世界だ。実験から法則を発見すると書いたけど、この前提として、法則というものがあるのだと暗黙のうちに仮定している。今日までの実験結果から法則を見つけ出して、同じ法則が明日も成りたつと信じている。もちろん、そんなことが証明されたわけじゃない。今日までなりたっている法則は明日も必ずなりたつという前提自体が経験にもとづく法則なのである。これがあるおかげで、法則は単なる過去の記述ではなくて未来を予言する力をもつ。僕たちが、地球は明日もまわっていると信じていられるのは、この予言力があるからだ。法則が過去のできごとを記述する力しかもたないなら、法則なんかいくつ見つけたってしょうがない。
明日突然エネルギー保存則がなりたたなくなるかもしれない。今日までエネルギー保存則がなりたっていたように見えたのは、たまたま偶然のできごとだったのかもしれない。純粋に原理的には、そういうことがあってもいいのだろう。でも、たぶんそうはならない。僕たちは明日も今日までと同じ法則がなりたつと信じている。少なくとも今までそれでうまくいっていたんだから、これからもそれでうまくいくと考えるほうが作業仮説として有効じゃないか。
それまで徹底して否定してしまう立場もありうる。ただし、それは未来の予想がいっさい立たない、なんでもありの世界を認めることだ。あえて首尾一貫してその立場をとろうというなら止める筋合いはない。それは科学じゃないけれど、別の哲学を作れるのかもしれない。でも、好きなものだけ認めて気にくわないものは否定する、というのじゃだめだ。
。 要するに好き嫌いと信じる信じないは別問題なのだ。この区別がつかないなら子供と同じである。
今では、この文書は偽造されたものであることが明らかになっている。未だにMJ12が実在だったかのように扱われることがあるけど、それは偽造だということを知らないか、さもなければ知った上でやっている悪質なものかのどちらかである。