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2010/03/25 「科学と神秘のあいだ」
2010/03/05 「脳の迷信」映像

2010/03/25 「科学と神秘のあいだ」

カテゴリー: イベント・告知

一部のかたには、今日ブログを整理するとか今週とか先週とか、いろいろ言っておいて、まったく手付かずですみません。

『科学と神秘のあいだ』(筑摩書店・双書zero、ISBN978-4-480-86072-9)が、早いところは今日から店頭に並んでいると思います。webちくまの連載をまとめたものですが、かなり手をいれました。かなりくだけたエッセイです。気軽に読んでいただければ。

本格的なニセ科学研究本を期待されていたかたには申し訳ありません。懸案の『ニセ科学入門』は別途書いています。毎日少しずつ書いてます。必ず出します。

「はじめに」の部分の最終版を掲載します

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はじめに この本を書いたわけ

 今、書店の店頭でこの文章を読んでいるあなたは、もしかしたら「科学と神秘」という言葉の組み合わせになんとなく興味を惹かれて、ちょっとページをめくってみたという感じだろうか。科学のことならわかるけど、神秘ってなんだろう、とか、逆に、むしろ神秘のほうが想像しやすいという人もいるかもしれないね。

 このちょっと風がわりな(じゃないかと思う)エッセイの中で、僕は科学的な「ものの見かた」や「考えかた」にまつわるあれこれについて、書いてみた。

 といっても、もちろん科学の教科書を書きたかったわけじゃないし、科学とはなんだろうなんていう大きなテーマの本でもない。科学っていうと、なにか特別なもののように思われちゃうかもしれないけど、それはつまり、客観的なものの見かただとかそれにもとづく合理的な判断だとか、そういう話。軽い気持ちで読んでもらえたら、うれしい。

 でも、科学の話をするのだとしたら、神秘の話のほうはどこにいっちゃったのだろう。たぶん、そういう疑問がわくと思う。神秘なんかどこにもないよっていう話になるなら、それはそれでちょっと残念かもしれないね。

 リチャード・ドーキンスという生物学者がいる。有名な『利己的な遺伝子』という本をはじめとして、一般向けの面白い進化論の本をいくつも書いているから、一冊や二冊は(もしかしたら全部)彼の本を読んだという人も多いのじゃないかな。そのドーキンスは、最近、「神は存在しない」と強く主張し続けている。

 人間は神様が作ったのじゃなくて進化の産物なんだっていうことをドーキンスはみんなに伝えたいんだ。もちろん、僕もそう考えている。人間は進化によってうまれたし、神様はいない。少なくとも造物主としての神は実在しない。

 じゃあ、そこには神秘も奇跡もないんだろうか。

 いや、神様が生物を作ったのじゃないとしても、そして人間は進化によって偶然生まれたのだとしても、それはやっぱり奇跡だし神秘だと思う。だから、科学と神秘は必ずしも敵対関係にあるわけじゃないはずなんだ。

 ドーキンスには、キリスト教社会に住む生物学者として、強い調子で神様を否定しなくちゃならない理由がある。実際、キリスト教の保守派といわれる人たちは、進化論を強く拒否して、神による創造は科学的事実だと主張したがっている。ドーキンスはイギリス人だけど、この対立は特にアメリカで学校教育を巻き込む深刻な問題になっている。

 いっぽう、今の日本の社会でドーキンスほど声高に神を否定しなくちゃならないのかどうか、僕には今のところわからない。たぶん、どんな神様の話をしているかによるんだろうね。

 もっとも、この本でドーキンスのように大きな話をしようというわけでもないんだ。

 科学は客観的な事実を相手にする。客観的っていうのは、誰が見ても同じになるっていう意味だ。でも、僕たちの日常の経験は客観的なものばかりじゃない。むしろ、他人とは共有できない個人的な体験のほうが圧倒的に多いと思う。個人的な体験は共有できないから、そこには奇跡の起きる余地がある。そんなわけで、日常の些細なできごとの中にも、科学と神秘にかかわる問題がたくさん転がっている。

 たとえば、長く会っていない友人のことをふと思い出したちょうどそのとき、当の友人から電話がかかってきた、なんていうささやかな奇跡は、きっと毎日のように日本中のどこかで起きているに違いない。客観的には神秘でも奇跡でもないものが、個人にとっては神秘にも奇跡にもなる。そういう話をしようと思う。

 僕は大学に勤めていて、大学院生と物理学の研究をして、大学生に物理学やコンピュータ・シミュレーションなんかを教えている。

 だから、科学を仕事にしているはずなんだけど(いや、じっさい本業は科学なんだけど)、いつからか、科学じゃなくてニセ科学という妙なものにもかかわるようになってしまった。ニセ科学だなんて、言葉からして妙ちきりんで、はじめて聞く人にはどういう意味なのか見当もつかないかもしれないね。

 僕や仲間の科学者は、一見科学のようだけどよく見ると科学と呼ぶわけにはいかなかったり、あきらかに科学じゃないのに科学に見せかけていたりするさまざまなものや説をまとめてニセ科学とよんでいる。ニセ科学じゃなくて、疑似科学とか似非科学という言葉を使う人たちもいる。

 実は世の中にはそういう変なものがあふれている。ちょっと科学に詳しい人の目からは荒唐無稽にしか見えないものもあれば、知識があってもよく考えないとどこがおかしいのかわからないものもある。

 どうしてそんな妙な話が出てくるのか、理由はいろいろあるのだろうし、別に目くじらを立てるほどでもないものも多い。でも、いっぽう、その一部は深刻な問題を引き起こしているから、何もしないでほったらかしにしておくわけにもいかないという気がしている。

 身近なところでは、血液型で性格が決まるという説が血液型による差別を招いている。こういう説が言われ始めた1930年頃ならいざ知らず、今ではこの説を支持する根拠はないし、心理学の実験では否定されている。それなのに、「人間科学」だとか「統計」だとかいう言葉で取り繕って、客観的な根拠があるかのように言う人たちがいる。

 あるいは、客観的根拠のないいろいろな話が学校教育の現場で広まっている。たとえば、テレビゲームをすると脳が壊れるという説なんかがそうだ。水が言葉遣いを教えてくれるなんていうオカルトのような話もある。そんな怪しい話が学校教育にはいってくるのは、やっぱり問題だ。

 でも、この本でニセ科学全般の話をするつもりもないんだ。

 そういう妙なものについていろいろ考えているうちに、「信じる」とか「納得する」とかいうことの意味が気になりはじめた。

 もちろん、人間なんて日頃からそんなにがちがちに合理的で論理的に判断して暮らしているわけじゃないし、そうする必要もないと思う。

 たとえば、「当たりっこないけど、星占いは好き」っていう人はたくさんいるにちがいない。占星術から天文学が生まれたのだけど、今の星占いは科学じゃないし、「当たらないけど」って思いつつ楽しむなら、なんの問題ないはずだ。その日なに色の服を着るかくらいなら占いで決めたってかまわないよね。

 でも、それに振り回されたり、他人に押し付けたりし始めたら、やっぱりまずい。アメリカではかつて、レーガン大統領夫人のナンシー・レーガンが星占いを信じていて、それが大統領の行動にも影響していたんじゃないかなんて言われた。そうなると、もう笑い話じゃ済まない。

 オウム真理教というカルト教団が有名になったころ、大学で理系の専門教育を受けた人たちが信者や幹部にいるのが話題になった。彼らにとって、科学とはいったいなんだったのだろう。

 もしかしたら、科学が人生について大切なことをあまり教えてくれないことに、彼らはがっかりしたのかもしれないね。そう、科学は「生き方」なんか教えてくれない。人生だとか生きる意味だとか、そんな問題は科学で解決できるはずがないし、そう期待するべきでもない。だって、もしも科学がそんなことまで教えてくれるのなら、世の中には科学以外なにも必要なくなっちゃうじゃないか。

 あるいは、もしかしたら、奇跡を目の当たりにして考えが変わっちゃったのかもしれない。オウムは奇跡や超能力を売り物にしたカルトだから、何かすごいものを見てしまったのか。

 もし「科学」というものをただの知識だと思っていたのなら、そういう体験で人生観が変わってしまってもおかしくないという気はする。だけど、個別の科学の知識よりもだいじなのは、客観的なものの見かたのほうだ。知識はもしかしたら将来変わるかもしれないけど(実際、新しい発見が次々にあって、科学的な知識は日々書き換えられている)、客観的な「見かた」はもっとずっと普遍的で、それだけに強靭なものだ。

 この本全体を通してのキーワードを挙げるなら「リアリティ」と「折り合い」になると思う。僕たちはどうしたって自分の体験からは逃れられない。その体験はもしかするとものすごくリアルなのに客観的事実と相容れないかもしれない。そんなとき、僕たちは「折り合い」をつけなくちゃならないんだと思う。

 この本では、そういう話を僕自身のかなり個人的な体験や趣味を盛り込んで書いてみた。古くさいロックやSFの話がそこかしこに出てくるので、もしかしたら、それだけで、わからないって思われちゃうかもしれないのだけど、わからなくても困らないようには書いたつもりなので、適宜自分の好きな音楽にでも置き換えてください。

 ロックやSFについて書くのは、それが僕にとっての「リアル」だからだ。今どきレッド・ツェッペリンじゃないよトゥールだよっていう人はそれでいいし、B'zでも、坂本冬美でも、ショスタコビッチでもかまわない。もちろん、音楽でなくてもいい。芸術にでも文学にでも、あるいはスポーツにでも、神秘や奇跡の瞬間はあると思うから。

「間奏」では、テルミンの話をしよう。テルミンっていうのは、手で触れずに演奏する楽器だ。演奏の様子は魔法のようだけど、実はすごく単純な電磁気学の原理を使っている。科学と神秘のあいだにあるものについて考えるにはうってつけの、とても奇妙で素敵な楽器なんだ。

 もし、科学なんて無味乾燥で夢がないと感じている人がいるなら、科学者はあらゆる神秘をなくそうなんて考えていないし、神秘はなくならないってことが伝わればいいと思う。逆に、あらゆることがいずれは科学で説明できると信じている人がいるなら、たぶんそれは考えなおしたほうがいいっていうメッセージも少しだけこめた。

 それから、科学者なんて人種はいつでも沈着冷静で、ほとんど人間じゃないと思っている人も世の中には少なからずいそうなんだけと、そうじゃないってことも伝わるといいなあと思う。じっさい、僕は沈着とも冷静とも合理的ともほど遠い生活をしている点では自信がある。

 そんなわけで、こんな妙な本を書いた。

 とりあえず、読んでもらえるとうれしい


2010/03/05 「脳の迷信」映像

カテゴリー: ニセ科学

本当にほったらかしですみません

気力が全然足りてません

さて、時間が経ってしまいましたが、「ニセ科学フォーラム2009」からゲストにお招きした藤田一郎先生(阪大生命機能)の「脳の迷信」の映像をyoutubeで公開します

10分ごとに切らなくてはならないので、まずは最初の10分です

http://www.youtube.com/watch?v=Q7z3DSuD6tw

続きもなんとか今月中には公開したいと考えています

[追記]

すでに全部公開していますので、ご覧ください